たまにはお散歩


 

第6回 梅田・曽根崎へ (2002. 2.11.)

巻1 「難波から船場まで」

 

 目が覚めると雪が降っていた。家々の屋根が白い。前の夜から,「明日はお散歩に行こう」 と決めていたが,ふと,ためらってしまう。熱いコーヒーを飲みながら外を見ていると雲間に,お日様が現れた。やっぱり,出かけよう・・・
 外に出ると,すでに雪も止み,太陽の光に,早くも融けはじめていた。空気は冷たいものの日の光には,力強さがあった。

 南海電車で,難波へ出る。今日は,前回の続きから始めよう。
 高島屋の入っているターミナル・ビルから,御堂筋に出る。少し天気が悪い。晴れていた空を雲がおおう。

 

高島屋  高島屋

 

 今日のコースは,予定では,御堂筋を中心にキタに向かう。現在の大阪の中心部を行くつもりだ。(地図参照
 のんびりと北に向かって歩く。千日前通りを越え,道頓堀橋を渡ると,右手には,例の戎橋が見える。休日とはいえ,まだ,午前10時を過ぎたばかりのことで人通りも,まだまだ,多くはないようだ。
 それでも,御堂筋より東側を南北につながるアーケード街の 「心斎橋筋」 は,まだ少ないとはいえ,のんびり 「お散歩」 するには,人通りが多過ぎる。「心斎橋」 も紹介したいが,このまま,「御堂筋」 を北上することにしよう。

 

道頓堀  道頓堀

 

 さらに,北に進むと,角に和風の建物が,ビルにはさまれながら建っている。実は,寺なのだ。真言宗御室派準別格本山・三津寺という。大阪の人は,「みってら」 と呼ぶ。いや,この寺のことより,この寺の南側を東西に走る細い道が,「三津寺筋( みってらすじ )」 だということの方が有名かもしれない。

 

三津寺  三津寺

 

 三津寺から二筋北に行くと周防町筋。御堂筋を越えて,東西に伸びるこの通りは,今,大阪の若い人たちが集まっているところ。しかし,そんな10 代の人たちに,「周防町筋」 などと言っても,おそらく通じないだろう。御堂筋より東側を 「ヨーロッパ村」,西側を 「アメリカ村」 と言う。らしい。(笑)
 「アメリカ村」 も省略されて,「アメ村」。アメ村でなくては通じないかもしれない。

 アメ村は,もとは,古い倉庫街だったが,アメリカ西海岸から古着などを買い付けて,売り出したのが,始まりという。今では,けっこう広い範囲に広がり,ファッション,雑貨,音楽など,若い人であふれる店がいっぱいある。 
 あまりのパワーに,おじさんは尻込みして,ほんの入り口近くで,写真を一枚撮っただけで退散することにした。

 

アメ村  アメ村

 

 御堂筋は,大阪の南と北をつなぐ道路だが,交通量の多さから,今では,南行きのみの一方通行になっている。しかし,大阪の中心を貫く,幹線道路であることに変わりはない。
 この御堂筋は,大正3年に助役になり,12 年から昭和 10 年に亡くなるまで,大阪市長を務めた,関一 (せき はじめ) が,大阪の南北のターミナルをつなぐものとして構想し,実現させたもの。それまでの御堂筋というのは,淡路町から長堀までの約 1.3 km,幅3間 (約 5.4 m) と狭く,短い通りでしかなかった。それを,梅田から難波までをつなぐ,幅 50 m という道路にしようというのが,彼の計画だ。
 御堂筋を拡張するというより,むしろ新しい道を作るという工事は,同時に,その道の下に「地下鉄」を通す工事でもあった。道は,昭和12年に完成し,地下鉄の方も昭和 13 年には,梅田から天王寺まで開通したという。

 御堂筋をさらに北に向かう。東西に伸びる広い道路,「長堀通り」 と交差する。
 「長堀」 という名が示すとおり,もともとは,堀川であった。大阪市内にも,多くの堀があったが,現在,そのほとんどは,埋められており,残っているのは,「道頓堀川」 くらいなもの。この 「長堀川」 も今は,地下駐車場になっている。

 長堀通りを西に行ってみよう。すぐに,また,南北に走る「四つ橋筋」に出る。その 「四つ橋筋」 と平行に走る高架は,阪神高速道路。この高架の走るあたりに,もとは,「西横堀川」 があった。
 「長堀」 と 「西横堀」 が合流するところに,4つの橋がかかっていた。ちょうど,交差点の横断歩道のようなものだ。
 長堀川の北側,西横堀川に東西に架かっていた 「上繋橋( かみつなぎばし )」,西横堀川の東側に長堀川をまたぐ 「炭屋橋( すみやばし )」,長堀川の南側に西横堀川に架かる 「下繋橋(しもつなぎばし)」,西横堀の西側で長堀に架かる 「吉野屋橋( よしのやばし )」。この4つの橋が,四つ橋で,今は,交差点に碑が残されているだけだ。

 

四つ橋跡  四つ橋跡

 

 この西横堀川と東横堀川にはさまれ,長堀川から土佐堀川までの堀に囲まれた町が,広い意味でのいわゆる 「船場」 だ。

 さて,お散歩を続ける。四つ橋のあった旧西横堀川でもある,阪神高速の高架下を北にしばらく行くと,「新町橋跡」 がある。僅かに昔の橋の一部が移された碑が立っている。

 

新町橋跡  新町橋跡

 

 船場の西側,西横堀川に架かっていたこの橋を西に渡ると,そこは,江戸時代には,江戸の 「新吉原」,京の 「島原」 とともに,三大遊郭のひとつとして,並び称される大坂の「新町」があった。
 江戸時代は,元禄の頃。この新町に,「夕霧」 という大人気の太夫がいたという。井原西鶴も,『好色一代男』 の中で触れている。

 朔日より 晦日までの勤 屋内繁盛の 神代このかた 又類ひなき 御傾城の鏡 姿をみるまでもなし 地顔 素足の尋常 はづれゆたかに ほそく なり恰好 しとやかに しゝのつて 眼ざしぬからず 物ごしよく はだへ雪をあらそひ 床上手にして 名誉の好にて 命をとる所あって あかず酒飲みて 哥に声よく 琴の弾手 三味線は得もの 一座のこなし 文づらけ高く 長ぶんの書て 物をもらはず 物を惜まず 情ふかくて 手くだの名人 是は誰が事と 申せば 五人一度に 夕霧より外に 日本廣しと申せ共 此君此君と 口を揃えて誉ける

 美人なだけでなく,琴や三味線,歌も巧く,情が深く,文を書かせても巧みで,座を飽きさせず,日本中で一番の太夫と,絶賛している。さらには,次のように書いている。

 命を捨つる程になれば 道理を詰めて遠ざかり 名の立かゝれば 了簡してやめさせ つのれば 義理をつめて見ばなし 身おもふ人には 世の事を異見し 女房ある男には うらむべきほど程を合点させ・・・  

    井原西鶴 『好色一代男』 巻六 「身は火にくばるとも」 より

 遊女である自分と客との間には,一定の距離感を保つべく,思い入れる男たちに意見する女性でもあったという。自由に恋愛のできなかった当時,好いた惚れたという 「擬似恋愛」 の場所であった 「遊郭」 の太夫としては,確かに,できすぎた太夫であったようだ。

 そういう男女の舞台であった新町も,今は,その面影はない。

 新町橋からさらに北に進むと中央大通りに出る。ここで,再び東に折れ,御堂筋に出よう。そのあたりが 「本町」 である。
 中央大通りの高架下には,船場センタービルがあるように,現在の船場を東西に横切る通りである。これで 「北船場」,「南船場」 に分かれる。

 先に書いたように,船場は,堀に囲まれた 「大阪城」 の城下町として作られた。その始まりは,豊臣秀吉の頃に遡り,まだ砂州だった土地を堀で囲い開発した。東西の 「通り」 と南北の 「筋」 と呼ばれる道で格子状に区画され,そこに,久宝寺,平野,伏見などから人を移住させた。今も,「久宝寺町」,「伏見町」,「安土町」,「平野町」など地名に残る。
 大坂冬の陣,夏の陣で,荒廃したが,大坂城主となった,徳川家康の孫,松平忠明が復興させ,以後,大坂は幕府の直轄地となり,「天下の台所」 として発展する。その舞台が船場であった。
 江戸から明治,現在に至るまで,この地が大阪の中心であることに変わりない。今も大企業のビルや問屋街として,発展している。
 が,今日は,祝日のため,店のシャッターは閉ざされ,通る人もいない。街は静かだ。

 

丼池  丼池

 

 船場には,大阪の人でも,とっさに読めない地名も少なくない。たとえば,写真の 「丼池筋」。これを 「どぶいけ」 と読む。他には,薬品メーカーが多いことで有名な 「道修町」。「どしょうまち」と読む。

 東に歩いていくと,堺筋に出る。町人の町 「大坂」 のかってのメイン・ストリートである。堺筋を北に向かうと,白いビルが見えてくる。現在の 「三越百貨店」 だ。「三越」 は,昔の 「越後屋三井呉服店」 が前身である。その三越の南側,道修町通りとの角に,黒い瓦屋根の建物が建っている。明治36年に建築された 「小西儀助商店」 である( 現・コニシ株式会社・・・木工用ボンドなどで有名 )。

 

コニシ  コニシ

 

 江戸時代には,旅籠など,特別な場合以外は,2階建ての建物を建てることができなかった。それは,慶応3年,さらに明治5年に,木造高層建築が許可されることになったが,一般の町家は,基本的に,江戸時代と変わらなかったという。それが,明治の後期になり,大阪経済が持ちなおしてくるに従い,2,3階建ての町家が増えてくる。
 この 「小西儀助商店」 の建物もその頃の町家である。もとは 3階建てで,ひときわ目立つ大商家だったが,堺筋の拡張に伴い,堺筋側が削られ,改造され,さらに大正12年の関東大震災の時に,3階部分が撤去されたという。今に,明治期の町家を伝える貴重な建物のひとつだろう。

 さらに北へ歩くと 「今橋通り」 と交差する。この今橋通りには,江戸時代の豪商・鴻池善右衛門が住んでいたことでも有名で,この通りには,両替商が軒を並べていたという。中でも,今橋1丁目には,両替商の大店,平野屋五兵衛と天王寺屋五兵衛が向かい合っていたことから,「十兵衛横町」とも呼ばれていたという。
 今では,大阪の証券取引の中心,いわゆる 「北浜」 と呼ばれる地域がこのあたりから土佐堀川にかけてだ。

 今橋通りを西に入っていくと,また,瓦屋根の立派な日本建築が,ビルの中に建っている。近づいてみると,木製の門に掲げられた表札には,「大阪市立愛珠幼稚園」 と書かれており,その門の脇の石碑に,「銅座の跡」 と彫られている。
 とても幼稚園だとは思えないが,現在の建物は,明治34年のもので,石碑にあるように,江戸時代には,銅座があった。

 

愛珠幼稚園(銅座跡)  愛珠幼稚園

 

 この幼稚園の北側には,緒方洪庵の開いた 「適塾」 がある。今もその建物が残っている。残念ながら,その全景を写真に写すことができなかった。

 

適塾  適塾  適塾

緒方洪庵像  緒方洪庵像

 

 幕末の医師であり,洋学者であった緒方洪庵が,1843年,両替商・天王寺屋五兵衛の分家筋にあたる忠兵衛から購入した建物で,木造2階建て,1階の玄関部屋に続く,6畳の 「教室」 2室,それに2階にあった 「ヅーフ部屋( ヅーフの作成した 「蘭和辞書」 の置かれて部屋 )」などで,福沢諭吉,橋本左内,大村益次郎などの塾生たちが,競い合って勉学に励んだという。日本の夜明けを支えた 「塾」 であると言えるだろう。

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