たまにはお散歩


 

第6回 梅田・曽根崎へ (2002. 2.11.)

巻2 「中之島から曽根崎まで」

 

 適塾をあとにして,道を東に堺筋に戻ると,次は,さらに北へ,中之島を目指す。(地図参照

 堺筋を北に進むとやがて,土佐堀川に出合う。この川は,淀川の支流(旧本流だが)の大川が,中之島によって,川筋を分けられた,その南側の流れだ。
 そこに架かっている橋が 「難波橋」 で,現在の橋は,大正4年に架けられたもの。橋の両側で,ライオンが吼える。この橋の南詰,東側に土佐堀通りに面して 「大阪証券所」 がある。

 

難波橋  難波橋

 

 橋を渡ろう。土佐堀川を水上バスが滑るように走っていく。そして,目を中之島に向けると,緑青のドームと赤レンガの洋館が見える。「大阪中央公会堂」 だ。

 

難波橋から,中央公会堂を見る  中央公会堂

 

 中之島には,いくつかの明治から大正期の洋館が残っている。いずれも老朽化したため,一時は,取り壊されようとしていたが,中之島のシンボルでもあり,保存運動が展開され,現在,保存工事が進められている。
 この中央公会堂も,今,まさに工事の真っ最中である。大正7年,岩本栄之助が大阪市に寄付した当時の金額で 100 万円の基金をもとに建てられた。彼は,明治後半から大正にかけての,いわゆる 「相場師」 であった。30 歳の頃には,すでに名を挙げており,明治41年,渋沢栄一を団長とするアメリカ派遣団に参加して渡米。その時に,「金を稼ぐだけが能やない。世のため人のために,なんかお役に立ちたい」 と公会堂の資金を寄付したという。
 一時は「北浜の太閤はん」とも異名をとった天才相場師の彼は,しかし,株で失敗し,大正5年,公会堂の完成を見ることなくピストル自殺したという。

その秋を待たで散りゆく紅葉かな

 こういう辞世の句を残したという。(創元社編集部・編 『最新 大阪ものしり事典』,1996,創元社)

 中央公会堂の背後に建つ白いビルは,大阪市庁舎だが,その2つの建物の間に,実は,もうひとつ建物がある。それが,「府立中之島図書館」 だ。

 

中之島図書館  中之島図書館

 

 府立中之島図書館は,ギリシャの神殿を思わすような円柱のある正面玄関をもち,写真には入りきらなかったが,銅葺きのドームを持つ,明治 37 年に建築された建物である。ここは,住友家からの寄付で建てられた。
 蔵書 80 万冊以上で,830 の閲覧席には,今も,多くの人が訪れる。

 大阪市庁舎の西,御堂筋をはさんで,今ひとつの洋館がある。江戸時代,島原藩の蔵屋敷があり,明治になって,五代友厚の別邸があった場所。その土地に,明治36年,有名な建築家・辰野金吾の設計による洋館が建設された。「日本銀行 大阪支店」 である。

 

日本銀行 大阪支店  日本銀行 大阪支店

 

 中之島には,林立する現代のビルの間に,このように明治・大正の洋風建築があり,文明開化の香りを今に伝えているが,それより以前,江戸時代には,諸藩の蔵屋敷がたくさんあった。
 その最初は,加賀・前田家の蔵屋敷で天正の頃だという。以後,元禄時代には40藩,天保14年の記録では,42藩の蔵屋敷があったという。 
 海路運ばれた諸藩の米が,大川を遡り,この中之島に荷揚げされる。確かに,絶好のロケーションといってよいだろう。

 大坂の陣で,豊臣方ではなく,徳川方についたのが,淀屋常安である。家康方の茶臼山などの本陣の工事を請け負い,夏の陣のあと,恩賞として,中之島の開発権を手に入れた。
 「淀屋」 は,中之島を開発し,その土地に,諸藩の蔵屋敷が建つ。全国から様々な物産が送られてくる。これを,船場の問屋が買い,商売する。
 中之島の南,北浜に居を構えた,二代目の淀屋个庵 ( こあん ) は,米市場の立つ,自分の屋敷の前に橋を架けてしまう。淀屋橋である。
 淀屋橋南詰の少し西に 「淀屋の屋敷跡」 の碑が立っている。

 

淀屋の屋敷跡  淀屋跡

 

 淀屋の屋敷は,豪勢を極めたという。夏になると,天井はビードロ張りの水槽にして,金魚を泳がせていた,とか,冬場は,金のふすまを入れ,夏は,ビードロの障子にする,とか,蔵が48あったとか,・・・・
 それほどの財を,蔵元として,また様々な物産の市に関わり,その流通ルートを握って,つくった。大名に貸していたのは,銀一億貫目にも上るともいう。
 しかし,四代目・辰五郎の頃になると,彼は一生,算盤の置き方も知らなかったとか,大名に金を貸しても証文をとらなかったなど,放漫経営になってくる。その一方で,淀屋のあまりの栄華ぶり,多額の大名の借金のために,幕府も手を打つ。五代・辰五郎の時,宝永 2(1705)年,遊女身請けにからんで,文書・印判の偽造の容疑で,一気に淀屋の財産を没収してしまう。淀屋は,あっけなく消え,橋と地名だけが残った。

 淀屋のあと,新興の商人たちが登場する。鴻池,住友などの商人たちだ。
 とりわけ,酒の醸造と海運業で出発した,鴻池善右衛門は,のちには,財力をもとに両替商となり,その地位を固めた。また,現在,東大阪に 「鴻池新田」 という地名が残っているように,その財を土地開発に投資もし,その新しい土地で木綿の栽培をはじめる。
 鴻池家には,家訓が定められていたという。

 (鴻池) 宗利はまた享保十七年(1732)に家訓をつくり,鴻池家の商法−経営方針を定めた。第一条,財産の八,九割を長男が相続し,残りを次男以下が分ける。本家の繁栄のためである。第二条は,新儀停止や祖法遵守を決める。もうかると思っても新しい商売に手を出すな,従来の慣行を守れ,新規の大名貸しをやめよという。鴻池家もすでに守勢に立っている。しかし,これがために多くの両替屋の没落の中で,家を保つことができた。第三条は,毎月に相談日を決めて万事を合議せよという。

    大谷晃一 『続・大阪学』 1994,新潮文庫

 そして,「日本の富の七分は大坂にあり,大坂の富の八分は今橋にあり」 といわれるほどの豪商であった。

 こうした商人の町であった大阪。お散歩していても,武士の匂いがどこにもない。もちろん,ここより東の台地にそびえる大阪城の周辺などを歩けばまた,違ってこよう。しかし,いわゆる大阪の町であるこのあたりは,商人たちの息遣いが聞え,大名といえども,彼らの前では,頭が上がらなかったという姿が浮かんでき,武士がなんぼのもんじゃ,お上がどうやいうねん,という大阪人の気風のようなものが感じられる。

 淀屋橋をもう一度中之島に渡り直し,北に進むと堂島川にかかる 「大江橋」 に出る。この橋を渡れば,「堂島」 と呼ばれる地域になる。「米相場」のあったところだ。
 中之島,北浜の発展に伴って,中之島の北側を流れる堂島川に浮かぶ島であった 「堂島」 が開発され,やがてそこに 「新地」 ができる。元禄の頃であろうか。「米相場」 もしだいに,こちらに移っていく。

 

田蓑橋と堂島のビル  田蓑橋と堂島

 

 元禄の頃,その堂島新地に,「天満屋」 というお茶屋があった。中之島から田蓑橋で堂島に渡り,しじみ川にかかる 「梅田橋」 の近くに店があったらしい。そこに 「お初」 という遊女がいた。

げにや安楽世界より 今此の娑婆に示現して われらがための観世音 仰ぐも高し高き屋に 登りて民の賑わひを 契り置きてし難波津や 三つづゝ十 (とお) と三つの里 札所札所の 霊地霊仏廻れば 罪も 夏の雲 暑くろしとて 駕籠をはや をりはの乞目三六 (さぶろく) の 十八九なる かほよ花 今咲出しの 初花に・・・

 こう表現される彼女には,言い交わした内本町の醤油屋 「平野屋」 の手代・徳兵衛という男がいた。しかし,そんな自由な恋愛ができる時代ではない。お初は遊女であり,徳兵衛の叔父でもある 「平野屋」 が認めるはずもない。そればかりか,内儀の姪との縁談があり,徳兵衛の母はすでに 「平野屋」 から銀2貫目を受け取ってしまっている。

 徳兵衛は,檀那でもある叔父とかけあい,銀は返すからと縁談を断り,その足で,母親のところに行き,何とか銀 2貫目を取り戻してくる。
 その帰り,兄弟同様と思っていた友だちの九平次に,どうしても必要だからと借金の申し出を受け,まだ,自分の方の返済の期限には間があるからと,男気を出して,大切な銀を貸してしまう。
 数日たって,九平次に返済を求めると・・・
「借りた覚えなどない,なに証文がある? 先月28日に借りた? わしは,先月25日に印判を落としてしまったのに,なんで,28日の証文に印判を捺せるものか。さては,徳兵衛,偽造したな」
 と九平次の仲間の前で罵られ,「おのれ騙したな!」 と掴みかかれば,彼の仲間らにさんざんに殴られ,蹴られる始末。

 泣きの涙で 「天満屋」 のお初に会いにいくと,こともあろうに九平次が天満屋にやってくる。思わずお初は縁の下に徳兵衛を隠す。
 そんなことも知らずに,九平次は,まんまと騙りが成功したことを喋りまくる。

はつは涙にくれながら 「さのみ利根 ( りこん ) に言わぬもの 徳様の御こと 幾年馴染み 心根を明かし明かせし仲なるが それはそれはいとしぼけに 微塵訳は悪うなし 頼もしだてが身のひしで 騙されさんしたものなれ共 証拠なければ理も立たず 此の上は徳様も 死なねばならぬ品成るが 死ぬる覚悟が聞きたい」 と独語 ( ひとりごと ) に準 ( なぞら ) へて 足で問へば 打ちうなづき 足首取って喉笛を撫で 自害するとぞ知らせける 「ヲヽ 其の筈 其の筈 いつまで生きても同じこと 死んで恥をすゝがいでは」 と言へば 九平次ぎよつとして 「おはつは何を言はるゝぞ なんの徳兵衛が死ぬるものぞ もし又死んだら其の後は をれが懇 (ねんごろ) してやらふ そなたもをれに 惚れてじやげな」 と言へば 「こりや かたじけないの わしと念比さあんすと こなたも殺すが合点か 徳様に離れて 片時も生きてゐよふか そこな九平次のどうずりめ 阿呆口たゝいて 人が聞いても不審が立つ どうで徳様 一所に死ぬる わしも 一所に 死ぬるぞやいの」 と 足にて突けば 縁の下には涙を流し 足を取つて押戴き 膝に抱付き焦がれ泣き 女も色に包みかね 互に物は言はね共 肝と肝とに応へつゝ 泣きにぞ泣きゐたる

 こうしてふたりは,心中の覚悟を決める。徳兵衛が縁の下にいることを知らぬ九平次は,気味悪がって退散し,そのあと,ふたりは,店の者に気づかれないように店を出る。
 店を出て,まずは 「梅田橋」 を渡る。 

 現在は,堂島の北側を流れていた 「しじみ川」 は,埋め立てられ,堂島は,梅田とつながっているが,元禄4年の古地図を見ると,その 「しじみ川」 に架けられた橋のひとつに 「梅田橋」 という文字が見える。堂島川の田蓑橋から,まっすぐ堂島を抜けると 「梅田橋」 に出る。
 下の写真は,現在の 「出入橋」 交差点付近だが,「梅田橋」はこの近く (もう少し南・・・写真の右の方) にあったのではないだろうか。昔の地図との比較がきちんとできなくて,あくまでも私の推測でしかない。

 

梅田橋?  梅田橋?

 

 「梅田」 が地名として,地図に初めて登場したのが,元禄4年。その頃の 「梅田」 は実に寂しい場所であった。「泥田」 を埋めたから 「梅田」 と呼ばれるようになったともいい,また,松平忠明が大坂を復興させた時,天満にあった墓地を,このあたりに移転させている。田畑に沼地に墓地と 「梅田」 は,今とはまったく違って,人気の少ないところであった。
 だからこそ,お初と徳兵衛のふたりは,人目を避けて,梅田に渡ったのだろう。

 橋を渡って堂島を見るとどこかの店の2階から,誰かの歌う浄瑠璃が聞える。
 烏が啼くとふたりは,曽根崎の天神の森で死のうと決め,先を急ぐ。

 ふたりの歩いた道は,今は梅田の産経ビルの裏側から大阪ヒルトン・ホテル,丸ビル,大阪駅前第四ビルと第三ビルの間の道ではないかと言われている。国道2号線の少し北側にある裏道といってもいいだろうか。(写真左)

 その道をたどって行くとやがて御堂筋に出る。(写真右)
 この交差点を越えると,今は賑やかな商店街が続くが,当時は,森であったようだ。
 曽根崎の 「曾根」 という言葉には,「石ころだらけの荒地」 という意味があるという。いずれにせよ,「梅田」 同様に,寂しい場所であった。

 

  

 

心も空も影暗く 風しんしんたる曽根崎の森にぞ 辿り着きにける
 かしこにか ここにかと払えど草に散る露の 我より先にまづ消えて 定めなき世は稲妻か それかあらぬか 「アヽこは 今のは何といふものやらん」 「ヲヽあれこそは人魂よ 今宵死するは我のみとこそ思ひしに 先立つ人も有りしよな 誰にもせよ 死出の山の 伴ひぞや 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」・・・

 横断歩道を渡り,そのまま路地を入ると,すぐに南北につながる 「お初天神通り」 という賑やかな通りになる。その角に玉垣があり,そこが 「お初天神」 として有名な 「露天神社」 の裏口になる。

 この神社は,菅原道真が太宰府に左遷される途中,この地に立ち寄り

露と散る 涙に袖は 朽ちにけり 都のことを 思ひいづれば    菅原道真

 と詠んだ歌が社名のいわれという。
 しかし,それ以上に,この神社を有名にしているのは,近くの森の中で起きた心中事件と,それを題材にした人形芝居が大当たりをとったためであろう。そのため,「露天神」 というより,「お初天神」 として,親しまれている。

 

露天神社  露天神社  露天神社

 

 その心中事件が起きたのは,元禄 16(1703)年4月7日のことだった。そのひと月後の,5月7日に,道頓堀の竹本座で初演されたのが,近松門左衛門 作の 『曽根崎心中』 である。
 創作・脚色は,あるものの事件そのものは,ほとんど 「事実」 だという。

「いつ迄言ふて せんもなし はや はや 殺して 殺して」と最期を急げば 「心得たり」 と 脇差するりと抜放し 「サア唯今ぞ 南無阿弥陀 南無阿弥陀」 と言へどもさすが此の年月 いとしかはいと締めて寝し 肌に刃があてられふかと 眼 ( まなこ ) もくらみ 手も震ひ 弱る心を引直し 取直してもなを震ひ 突くとはすれど切先は あなたへ外れ こなたへ逸れ ニ三度ひらめく剣の刃 あつとばかりに喉笛に ぐつと通るが 「南無阿弥陀 南無阿弥陀 南無阿弥陀仏」 と くり通し くり通す腕先も 弱るを見れば 両手を延べ 断末魔の四苦八苦 あはれと 言ふも余りあり。
「我とても遅れふか 息は一度に引取らん」 と剃刀取つて 喉に突立て 柄も折れよ 刃も砕けとゑぐり くりくり目もくるめき 苦しむ息も 暁の知死期 ( ちしご ) につれて絶果てたり
誰が告ぐるとは曽根崎の 森の下風音に聞え 取伝え 貴賎群集の回向の種 未来成仏疑ひなき 恋の 手本となりにけり

    近松門左衛門 作,祐田善雄 校注 『曽根崎心中・冥土の飛脚』 1977,岩波文庫

 境内には,「お初徳兵衛」 の碑があった。
 近松門左衛門が 「恋の手本」 と賛美した二人を思い,一方で,井原西鶴の書き残した,「新町」 の 「夕霧太夫」 を思う。
 恋愛の 「実」 を求めた 「お初」 と,恋愛も所詮は 「虚」 の世界と割り切る 「夕霧」。

 いずれにしても,恋など自由にできなかった昔,ふたりの女性を思えば思うほど,そのどちらの心根もが,哀しく思われてくる。

 思わず掌を合わせた。

 

お初徳兵衛の碑  お初徳兵衛の碑

 


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