たまにはお散歩


 

第5回 天王寺から道頓堀へ (2001.11.13. & 11.24.)

巻1 「四天王寺と坂の町」

 

 生まれてからずっと,大阪で生活している。 今回は,大阪を 「お散歩」 しようと思う。 
 大阪といっても,私の生活範囲でいうと大阪の南部が中心だ。 生れは 「河内」,今住んでいる所は 「河内長野」。 職場は 「泉州」。 だから,どうしても 「ミナミ」 の方がなじみ深い。 
 今日は,だから 「ミナミ」 を歩く。 (地図参照

 「ミナミ」 というと,「ナンバ」 周辺をふつうは言うが,「お散歩 」は 「大阪」 の南の玄関ともいえる,「天王寺」 からスタートしよう。 

 JR天王寺駅は,関西線,紀勢線で奈良,伊勢,名古屋,そして南へは,堺,和歌山につながるターミナル。 天王寺駅,道路をはさんだ近鉄・南大阪線のあべの橋駅とその上に立つ近鉄百貨店などを中心に,天王寺・阿倍野周辺も一大繁華街となっているが,どうも泥臭くあかぬけていない。 そこが,天王寺らしいところでもある。 
 ここ数年,特に阿倍野側 (天王寺の南側) で,また再開発が進められており,私がよく通っていた頃とは,風景もまるで変わってきている。 その辺りも,いずれ 「お散歩」 してみよう。 

 

JR天王寺駅 JR天王寺駅

 

 駅を出て歩道橋に上がる。 そこから北西の方角を見ると大阪の一つのシンボルでもある,通天閣が,天王寺公園の向こうに見える。 
 久しぶりに,行ってみるとするか・・・しかし,今日は,先に,「てんのうじ」 さんにお参りすることにしたい。 

 

天王寺公園と通天閣 天王寺公園と通天閣

 

 駅前を北に向かって伸びる道路は,ほぼ上町台地の中央を走る 「谷町筋」。 
 大昔,大阪は,この天王寺辺りから北側に現在の 「上町台地」 が岬となって突き出していた。 その西側は,大阪湾。 東側には,「河内湾」 というように海に囲まれていた。 
 その河内湾が淀川や旧大和川の運ぶ土砂によって次第に浅くなり,岬の突端にも土砂が堆積して,「河内湾」 は 「河内湖」 になる。 古代の都が大阪に作られた頃は,まだ,そういう地形であった。 

 谷町筋をしばらく北上すると西側の歩道にひっそりと石碑が立っている。 元禄時代に発達した人形浄瑠璃の功労者,竹本義太夫の生誕地と書かれている。 近松門左衛門を座付き作者として迎え,一大ブームを巻き起こした人物だ。 

 

竹本義太夫生誕の地 竹本義太夫生誕の地

 さらに谷町筋を北上すると,国道25号線と交差する。 そこで東側を見ると鳥居が立ち,その向こうに 「西門 (さいもん)」 が見える。 「四天王寺」 だ。 

 1400 年以上前の,推古天皇の頃,物部氏と蘇我氏と間で 「仏教」 をめぐる争いがあった。 「仏教派」 の蘇我氏との関わりの深い聖徳太子が,

  「今若し我をして敵に勝たしめたまはば,必ず護世四王の奉為に,寺塔を起立てむ」 (『日本書紀』 「崇峻天皇紀」)

 と戦勝を祈願し,その争いに蘇我氏が勝った後に建立されたのが,この 「四天王寺」 である。 中門,五重塔,金堂,講堂が南北に一直線に並ぶ 「四天王寺様式」 の寺だ。 

 

四天王寺西門  四天王寺

 四天王寺

 

 「四天王寺」 の 「四天王」 といえば,「持国天」 「増長天」 「広目天」 「多聞天」というもともとは古代インドの神であるが,仏教では,それぞれ,「東」 「南」 「西」 「北」の四方を守るとされる。 

 四天王寺が大阪でこれほど有名なのは,写真のような伽藍の他に,「敬田院 (きょうでんいん)」,「悲田院 (ひでんいん)」,「施薬院 (せやくいん)」,「療病院 (りょうびょういん)」という四つの院があったからだろうか。 現在は,すでに失われているが,それぞれ,孤児や高齢者など身寄りのない人を救済したり (悲田院),病いを持つ人に医療や薬を施したり (施薬院,療病院),学問や精神的な救済を目的としたり (敬田院),現在の教育や福祉医療センターのような機能を持っていたからだろう。 
 大阪の,いや日本の福祉や教育の歴史を調べると必ずこの四天王寺にたどりつく。 民衆に愛された,そういう寺であった。 そして,今も多くの人が訪れ,賑わっている。 

 ところで,どうして 「西門」 があるのか・・・ふつう,寺には,南大門があり,南から入る。 奈良の古寺は,ほとんどそういう「かたち」になっている。 しかし,ここは,南からの参道も賑やかだが,「四天王寺西門」 としても有名だ。 これは・・・,平安時代末期から鎌倉時代にかけての 「西方浄土」 と関係している。 
 先に書いたように,この上町台地の西側は,海であった。 今の通天閣やら電気屋街の日本橋,難波などは,当時,海岸であった。 「西門」 からは,海に沈む夕日が美しく見え,この「西門」こそ,「浄土」 の 「東門」 にあたるという信仰が生まれたという。 
 そして,この古人が夕陽を眺めたあたりを 「夕陽ケ丘」 と今も呼んでいる。 

 いつごろから 「夕陽丘」 と呼ばれているのかは,定かではないが,藤原定家らとともに 「新古今和歌集」 を編纂した鎌倉時代の歌人・藤原家隆が,「夕陽庵 (せきようあん)」 という庵を建て,移り住んだ頃からであろうと言われている。 

  契りあれば なにわの里に やどりきて 波の入日を 拝みつるかな   藤原家隆

 こういう歌を歌い,この地で亡くなった彼の墓が今も残っている。 しかし,今,ここからは,海に沈む入日を見ることはできない。 

 

家隆塚 家隆塚

 

 この家隆塚に行くには,四天王寺を出,谷町筋を西側に渡り,また少し北に進むとカトリック系の学校がある。 その北側の道を入っていくと,「勝鬘院」 という寺があるが,この寺の北側にひっそりと木々に囲まれた 「塚」 がある。 

 大阪には,「大坂」 と,かっては呼ばれたように 「坂」 がある。 先に書いたように,上町台地の東西は,もともとは海であったわけだから,当然,上町台地より低い。 
 しかし,大阪に暮らしている人でも,それほど坂があるとは意識しないだろう。 現在の繁華街は,キタにせよ,ミナミにせよ,土砂に埋められた場所だ。 坂は少ない。 
 もちろん,この上町に住んでおられる方々は,坂の多さ,いや,上町台地の西側が,崖のようになっていることをご存知だろう。 だが,大阪で40年以上暮らしている私自身,それほど 「坂」 を意識したことがない。 そこで,これから,いくつか坂を訪ねてみよう。 

 家隆塚を後にして,もう少し北へ進むと,西側へ石段の坂道が見える。 「口縄坂」 だ。 

  路地の多い――というのはつまりは貧乏人の多い町であった。 同時に坂の多い町であった。 高台の町として当然のことである。 「下へ行く」 というのは,坂を西に降りて行くということなのである。 数多い坂の中で,地蔵坂,源聖寺坂,愛染坂,口縄坂・・・・・・と,坂の名を誌 (しる) すだけでも私の想いはなつかしさにしびれるが,とりわけなつかしいのは口縄坂である。 
  口縄 (くちなわ) とは大阪で蛇のことである。 といえば,はや察せられるように,口縄坂はまことに蛇のごとくくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である。 蛇坂といってしまえば打 (ぶ) ちこわしになるところを,くちなわ坂とよんだところに情緒もおかし味もうかがわれ,この名ゆえに大阪では一番先に頭に泛 (うか) ぶ坂なのだが,しかし年少の頃の私は口縄坂という名称のもつ趣きには注意が向かず,むしろその坂を登り詰めた高台が夕日丘とよばれ,その界隈の町が夕陽丘であることの方に,淡い青春の想いが傾いた。 

    織田作之助 『木の都』 より

 

口縄坂  口縄坂    

 口縄坂を降りきると,「松屋町筋」 に出る。 大阪人は,この筋 (道) のことを「まつやまち」 とは発音しない。 「まっちゃまち」 と言う。 極端な言い方をすれば,「まっちゃまち」 と言わないとわからないかもしれない。 

 この 「まっちゃまち 」は,「雛人形」 などの人形問屋もあるが,南のこの辺りは,実は,「バイク・ショップ」 の多い地域でもある。 

 松屋町筋もいいが,もう少し坂を訪ねよう。 
 口縄坂の南に 「勝鬘院」 という寺がある。 地元では 「愛染さん」 と呼ばれて親しまれており,ここの夏祭りが,大阪の夏祭りのトップを飾る。 
 この寺の場所に,かって,四天王寺・施薬院があったのではないかともいわれている。 

 寺を出てすぐ西側に,「大江神社」 があり,その南側に坂がある。 「愛染坂」 だ。 

 

勝鬘院・多宝塔  多宝塔  愛染坂  愛染坂

 

 愛染坂をおりると,細道に出る。 その道を南へたどると,路地のような坂があり,その先に小さな門がある。 
 大阪の 「清水寺」 だ。 この寺には,大阪 (市内) で唯一という滝がある。 「玉出の滝」 と呼ばれている。 写真でわかるだろうか。 石垣から突き出た3本の木の樋の先から,チョロチョロと水が落ちている。 上町台地の地下水が今も昔も滝となって落ちているのだ。 

 

清水坂  清水坂   玉出の滝  玉出の滝

 

 境内は,坂や階段が迷路のように続いており,境内のあちこちが棚田のような墓地になっている。 いかにも崖に建つ寺だ。 登りきるとお堂があり,そのお堂の西側が展望台のように開いていた。 通天閣から南海・難波のターミナルに建つサウス・タワー・ホテル・・・この坂のある町の静けさとは違った,異次元の風景とも思えるほど。 

 

清水寺からの眺望  ミナミ

 

 清水寺を出て,門前の道を塀にそって北側に歩くと 「清水坂」 に出る。 今度はこの坂を降りる。 さっきから,何度,坂を降り,坂を登ったことだろう。 先を急ごう。 
 坂を降り,細道を南に向かうと突き当たりに,狭い石段が見える。 石段まで来ると左,つまり東に向かって坂がある。 「天神坂」 だ。 坂の名前になった 「天神社」 が目の前の石段の上にある。 

 

天神坂  天神坂

 

 「安居の天神さん」 として親しまれる 「安居天神」。 菅原道真が筑紫の地に左遷された折,その道すがらこの地で休んだという。 そのために 「安居」 という。 
 境内には,大坂冬の陣,夏の陣で活躍した 「真田幸村戦死跡の碑」 がある。 この石碑の背後にあった松の樹のあたりで,ついに息を引き取ったという。 

 

安居天神  安居天神 真田幸村終焉の地  真田幸村の碑

 

 安居天神を南に抜けると国道25号線に出る。 交通量の多い国道だが,この道も 「坂」 である。 「逢坂」 という。 安居天神とこの 「逢坂」 をはさんだ大きな寺が 「一心寺」。 
 このお寺は,法然上人が 1185 (寿永4) 年に草庵を結んだのが最初と言われる。 
 また,大坂夏の陣では,家康の本陣があり,付近は大激戦地だったという。 
 第二次大戦の大阪大空襲で,伽藍すべてが焼けたが,その後再建された。 境内の墓地には,8代目市川団十郎など芸能関係者の墓も多く,全部で5千以上の墓があるという。 「お骨仏 (こつぶつ) の寺」 としても有名であり,納骨堂には,「お骨仏」 という人骨でつくられた阿弥陀如来が安置されている。 

 

一心寺  一心寺

 

 さて,「お散歩」を続けよう。 
 国道25号線を西に降りていく。 目の前に,通天閣が近づいてくる。 

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