たまにはお散歩


 

第9回 ニ上山の東と西 (2003. 4.27.)

巻2 ニ上山雌岳から太子町・王陵の谷

 

(巻1に戻る)

 ニ上山・雄岳山頂で,かんたんな昼食を終えると腰を上げた。せっかくだから,もう少し,のんびりしたいのだが,先を急ぐ。次は,雌岳を目指す。
 山道の途中で,雌岳を見下ろせた。意外なほどの高度差がある。地図で高さを確かめると,雄岳 517.2 m に対して,雌岳 474.2 m 。43 m の差だ。

 

雄岳への山道から見る雌岳  雌岳

 

 「馬の背」 まで降り,そのまま,一気に雌岳に登った。登山路は,樹木に囲まれ,ほぼ直線的に続く。雌岳とは,よく名づけたものだ。雄岳への道は,険しく,途中,岩肌の露出したところが何ヶ所もあった。それにひきかえ,こちらは,柔らかな緑に囲まれ,勾配も緩やかだ。

 山頂に着くと,お弁当を広げる家族連れで,賑わっていた。そこは,公園のような広場になっており,山ツツジの赤い花が眩しい。そして,中央には,大きな日時計が時を告げていた。

 

つつじ   日時計

 

 ここからは,下りだ。竹内街道へ出たい。雌岳の南斜面を一気に下る道に進む。

 しばらく細い山道を下りると,岩屋峠にさしかかる。さらに少し下ると,左手の斜面に樹齢 1000 年という杉の巨木が倒れたままになっている。
 「岩屋の千年杉」 と呼ばれる杉の樹で,高さ 28 m ,周囲 6 m という大木であるが,平成 10 年 9 月の台風 7 号によって,倒れてしまったものだ。

 

岩屋の千年杉  岩屋杉

 

 その杉の下をくぐって一段高くなった広場に出ると,正面の岩壁に,石窟寺院跡が目に入る。お弁当を広げている幼児連れの家族がいたが,目礼して,石窟の前に進む。
 「岩屋」 と呼ばれるこの石窟寺院跡は,奈良時代に造られたものという。大小,2つの石窟があり,その大きい方の石窟の正面には,三尊立像が浮き彫りにされていたという。しかし,長年の剥落のため,ほとんど,それと確かめることができない。

 目に付くのは,中央手前に彫り出された,三重塔だが,これもまた,風化が進んでいる。
 石窟の左手の壁ぞいに,数体の石仏が並んでいる。おそらく,時代は,石窟寺院が造られたよりは,新しいのだろう。それでも,表面は,かなり風化している。

 

岩屋  岩屋

 

三重塔   仏像たち

 

 関西には,役の行者の伝説が数多く残されており,このニ上山や當麻寺にもまた,彼の伝説が残されている。残されている伝説は,数多くの行者たちの行ったものが,「役の行者」 という名前で語られているものも,少なくはないだろう。それだけ,多くの行者が,山々を歩き回り,修行していたのだろう。
 この石窟寺院も,おそらくは,そうした行者たちが,造ったものに違いない。

 岩屋をあとにして,さらに,山を下る。大阪・南河内の平野部が見渡せる。その風景を眺めながら,歩き続けると,いきなり,自動車のエンジン音が耳に入る。それまでの,樹木に囲まれ,山の空気に包まれ,悠久の時間の流れをも,感じられるような静けさが破られる。

 山間の道路にしては,比較的交通量の多い,この道・・・国道 166 号線。この道は,古代からの幹線道路であった。「竹内街道」 である。
 堺,難波の港から,ニ上山の南側にある 竹内峠 を越え,飛鳥の地に至るこの道は,石器の原材料となる,ニ上山のサヌカイトを求め歩いたことで出来上がった道だと考えられるが,推古天皇の時代に,「官道」 として整備されたもの。いってみれば,我が国 最初の 「国道」 である。
 そして,この道は,中国や朝鮮半島から,いや,もっと広くアジアからの様々な 「人」 と 「物」 がこの道を通って,飛鳥・奈良にもたらされた。つまり,「シルクロード」 の東端の道だったといえるだろう。
 この街道沿いにある 「太子町立 竹内街道歴史資料館」 のリーフレットには,こんなことが書いてある。

 あるとき,存在すら気づかなかった道端のお地蔵さんや道しるべに目を向けると,それまで知らなかった遠い昔の出来事を語ってくれることがあります。道には私たちが歩んできた永い歴史が刻みこまれているのです。

 今は,舗装され,「人」 が歩くというより,「自動車」 が走る道が多い。お地蔵さんや道しるべに気づかずに通り過ぎてしまう。それでも,ふっと,道路脇に咲く花の色に,気がつくことがある。一瞬ではあるが・・・そんな野花は,古代から咲いていたのだろうか。

 

竹内街道  道路脇

現在の竹内街道 

 

 車をやり過ごしながら,道の端を歩きつづける。ここは,すでに,大阪府太子町。
 大阪に住む私ではあるが,太子町をゆっくり歩くのは,初めてのこと。今回の 「お散歩」 の前に下調べはしたが,やはり自分の足で歩き,目で見るのが,一番だ。
 この太子町には,多くの古墳がある。そのいくつかを回ってみるのが,今回の2つ目の目的だ。

 最初に訪れたのは,竹内街道の南側,「科長 (しなが) 神社」 のすぐそばにある 「小野妹子の墓」 だ。科長神社の鳥居のそばの長い石段を登っていくと,玉垣に囲まれた墳丘がある。東西 15 m ,南北 11 m ,高さ 3 m ほどの楕円形をしている。調査によると,石室,石棺などは見当たらないという。
 どうして,小野妹子の墓が,この太子町にあるのか? それを考えるのはあとにして,次を回ろう。

 

小野妹子の墓   小野妹子の墓 

小野妹子の墓

 

 集落の間を抜け,西にしばらく歩いて行くと,畑地の向こうに小高い丘が見えた。写真ではわかりにくいが,三段になっているようだ。一辺が およそ 60 m あるというこの方墳は,「推古天皇陵」 である。書紀によると,

 是より先に,天皇,群臣に遺詔 (のちのみことのり) して曰はく,「 比年 (としごろ),五穀 (いつつのたなつもの) 登 (みな) らず。百姓 (おほみたから) 大きに飢う。其れ朕が為に陵 (みささぎ) を興てて厚く葬ること勿。便に竹田皇子の陵に葬るべし」とのたまう。

 とあるように,皇子の竹田皇子と合葬されている。
 古い書物には,「横穴式石室が開口し,内部に2つの石棺があったとしています」 (上野勝巳 『王陵の谷・磯長谷古墳群』 太子町立竹内街道資料館) という。
 推古陵の東 (山側) 200 m ほどのところに,2つの方墳が連なった 「双方墳」 の 「二子塚古墳」 があり,それぞれの墳丘に,石室と石棺が見つかっており,これもまた,ある意味では,合葬された古墳であるといえる。規模は,全長 61 m ,幅 23 m というから,推古陵の比ではない。
 しかし,かっては,こちらが 「推古陵」 だと考えられていたこともあるという。

 

推古陵  

推古天皇陵  二子塚古墳

 

 推古陵をさらに西へ行けば,「小原古墳」,「葉室塚古墳」,「石塚古墳」,「塚穴古墳」,「天皇塚古墳」など,現在は,原型をとどめていない古墳が多いが,石室や石棺が残っているものある。さらに,西には,この地域では珍しい前方後円墳の 「敏達天皇陵」 がある。
 この地域の古墳の多くが 「方墳」 であることから考えれば,「前方後円墳」 が作られた,少し古い時代から,この地域が 「陵墓」 の土地であったといえる。
 興味深いものがあるが,今回は,実際に訪れなかった。少し疲れてきた。

 推古陵から,今日の最後の目的地,「聖徳太子廟」 を目指して歩く。
 その途中,道路脇に,こんもりと樹木の生い茂った丘が目についた。どうやら 「古墳」 らしい。
 奈良や大阪の郊外を歩くと,畑や住宅地の真ん中に,こういう緑の丘を見つけることが多いが,大きさにかかわらず,それが,「古墳」 であることも少なくない。

 今,目の前の丘は,かなり大きい。近づくと,すぐ南側には,住宅が建っているが,玉砂利を敷きつめた参道を入っていくと,確かに 「用明天皇陵」 であった。
 東西 65 m ,南北 60 m の方墳で,規模も 「推古陵」 に匹敵する大きさだ。

 

用明天皇陵  用明陵

 

 用明陵からさらに北に進み,町並みに沿って西に歩くと,「磯長山 叡福寺」 という寺がある。
 この寺は,聖徳太子の御廟を守る寺として建立されたという。お寺でもらったリーフレットには,次のように書かれている。

推古天皇 30 年 (622 年) 太子の母,穴穂部間人大后の眠る御廟に太子と妃の膳部大郎女が合葬された折,推古天皇より方六町の地を賜り,霊廟守護のために僧坊十烟 (墓守の家 10 軒) を置いたのが始まりといわれている。 

 もっとも,この寺のはっきりとした成立年代は,不明であるというのが事実で,調査によれば,推古天皇の時代より,下がった時代にできたのではないかといわれている。

 

叡福寺  叡福寺

 

 石段の上の南大門をくぐると,正面に山を守るように,お堂が建っているのが,すぐに目に入る。まず,目に止まるのが,「ニ天門」 だ。
 金堂や多宝塔などは,「南大門」 と正面の 「ニ天門」 のつくる中心線より西側,写真の左側に偏った位置に建っており,それだけでも,この寺が,その背後の 「御廟」 を守るために建てられたことはわかる。

 

聖徳太子廟  聖徳太子廟

 

 背後の山にある 「聖徳太子廟」 は,先に引用した叡福寺の記事にある通り,元は,聖徳太子の母であり,用明天皇の皇后であった 穴穂部間人皇后陵 があった。皇后は,推古天皇 29 (621) 年に亡くなった際,この地に墓所が定められ,立派な石室を築かれた。
 その翌年,聖徳太子は,突然,亡くなる。さらに,太子の亡くなった翌日には,妃であった,膳部大郎女も亡くなってしまう。皇太子として,摂政として,国を動かしてきた彼ほどの人物だったにもかかわらず,新たな陵を造ることもなく,あわただしく,母の墓に,妃と共に,葬られたのである。
 なにやら,謎がひそんでいる。その 「謎」 については,別の 「お散歩」 の機会に紹介することにしよう。今は,ただ,「怪しい謎」 があることだけ,書いておく。

 ところで,この太子町に,今日,見てきただけでも,「推古天皇」,「用明天皇」,「聖徳太子」 それに,実際には,足を運ばなかったが,少しだけ触れた 「敏達天皇」 と多くの天皇陵が残されている。実は,他に,「孝徳天皇陵」 もある。
 そう,「小野妹子」 の墓もあった。そして,今日の 「お散歩」 で探し回ったのだが,ついに見つけることができなかった,もう一つの 「墓」 がある。「蘇我馬子」 の墓と伝えられていた,石塔だ。
 それ以外にも,蘇我一族の墓がこの地にあるとも伝えられている。

 この太子町から西北の羽曳野市にかけて,竹内街道沿いの地域は,「河内飛鳥」 とか 「近つ飛鳥」 と呼ばれており,実は,有名な 奈良・大和の 「飛鳥」 は,ここ 「近つ飛鳥」 の住民を移住させてできた地域だという。そして,この 「近つ飛鳥」 の地は,蘇我氏の本貫地でもあった。

関連系図

 蘇我氏といえば,物部氏との 「崇仏論争」 で勝ち残り,物部氏を滅ぼしたあと,天皇家との関係を深め,権力を掌中に収めた。その後,物部の一族ともいえる 「中臣鎌子」 と 「中大兄皇子」 が手を結び起こしたクーデター, 「大化の改新」 で失脚するまで,思いのままに,国を操った一族である。一時は,天皇をさえ,粛清する力をも持っていたほどだ。
 用明天皇,推古天皇は,蘇我稲目の娘 「堅塩媛」 と欽明天皇の子どもである。その欽明天皇とやはり,蘇我稲目の娘 「小姉君」 との間に生まれたのが 崇峻天皇と 「穴穂部間人皇后」 で,この 「穴穂部間人皇后」 と 「用明天皇」 の子どもが 「聖徳太子」 である・・・・と,時の天皇には,ほとんど蘇我氏の血が流れている。(右図参照)

 太子町 王陵の谷 に眠る者の多くが,蘇我氏の関係者,あるいは,蘇我氏と天皇家との結びつきの極めて強い時代に限られるようにみえる(系図中の 「*」 は,太子町に墓があると伝えられている人物)。
 彼らのほとんどは,奈良 大和の 「遠つ飛鳥」 で亡くなった者たちである。その彼らの葬送の行列は,間違いなく,「竹内街道」 を通って,この地に葬られたのだ。
 そうだ,ニ上山に葬られた 大津皇子も,竹内街道を運ばれたのだろう。

 先に,竹内街道は,「シルクロード」 の東端の道だと書いた。
 西方の大阪・難波から飛鳥に至る道は,まさに,そういう 「文化」 を伝える道だった。
 その同じ道が,東の 「飛鳥」 から西方に向かう時・・・「葬送」 の道となり,ある時は,「魂」 を呼び戻すべく泣き,ある時は,「魂」 を鎮めるべく泣きながら,言葉を,歌を,唱しながら,人々の行列が歩いたのだろう。「魂」 を送る道 となったのだ。

 「挽歌」 という 「歌」 がある。柿本人麻呂の 「挽歌」 がよく知られている。
 「挽歌」 ・・・「挽き歌」。まさに,棺を挽きながら,歌う歌だ。

    柿本朝臣人麻呂,泊瀬部皇女忍坂部皇子に獻れる歌一首
飛ぶ鳥の 明日香の河の 上つ瀬に 生ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ觸らふ 玉藻なす か依りかく依り なびかひし 妻の命 (みこと) の たたなづく 柔膚 (やははだ) すらを つるぎ太刀 身に副へ寐ねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ そこゆゑに 慰めかねて けだしくも あふやと思ひて 玉だれの をちの大野の 朝露に 玉藻はひづち 夕霧に 衣はぬれて 草まくら 旅宿 (たびね) かもする あはぬ君ゆゑ    (『万葉集』一九四歌)
    反歌一首
しきたへの袖交へし君玉だれのをち野過ぎゆくまたもあはめも    (『万葉集』一九五歌)
    右は,或本に曰く,河島皇子を越智野に葬りし時,泊瀬部皇女に獻れる歌なりといへり。日本紀に曰く,朱鳥五年辛卯,秋九月己巳朔丁丑,淨大參皇子川島薨りましきといへり。

 

 そろそろ,日が西に傾いてきた。本当に数ヶ月ぶりの 「お散歩」 で,少々,疲れてしまった。予定では,あの中学生の頃のように,「上の太子駅」 まで歩くつもりだったのだが・・・駅までは,バスに乗ろうと思った。
 叡福寺前の横断歩道をバス停に向かって渡ると,横断歩道の脇の,太子町内では,あちらこちらで見かけた,ランドセルを背負う 「聖徳太子」 が笑顔で迎えてくれた。

 

聖徳太子  聖徳太子

 


 * 大阪府太子町の HP も参考になるかと思います。


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