たまにはお散歩


 

第9回 ニ上山の東と西 (2003. 4.27.)

巻1 當麻寺からニ上山雄岳まで

 

 何年前になるのだろう。中学1年生の,確か,ちょうど今時分の季節だった。別々の小学校から同じクラスになったばかりの新しい友だち2人と 「ニ上山」 へ出かけたのだ。それは,私にとって,初めて子どもだけで,電車に乗って出かけるという 「小さな冒険旅行」 だった。

 そんな昔のことを懐かしみながら,近鉄・南大阪線に揺られている。
 あの時は,「ニ上山口駅」 で降りたんだろうか? それとも,「當麻寺駅」 だったろうか?
 すっかり記憶から消えてしまっている。ただただ,ニ上山に登り,地図も持たずに,ひたすら歩き,そう,無謀にも,「家まで歩こう!」 などと言い合いながら,しかし,疲れ果てて,結局,「上の太子駅」 から電車に乗ったんだった。足は,棒のようになっていたが,それは,楽しい,そして,なにやら 「冒険」 をやりとげた爽快感もあった。

 今日は,「ニ上山」 に登る前に 「當麻寺 (たいまでら)」 に立ち寄ると決めていた。ただ,どの駅で降りるかはまだ,迷っていた。
 最寄り駅は,もちろん,「當麻寺駅」 だ。しかし,ひとつ先の 「磐城駅」 で降り,「竹内街道」 を少し西へ歩き,そこから北に向かって 「當麻寺」 を目指すというコースも頭にあった。それは,古代の人がたどった道だ。少し遠回りになるが,そう考えると魅力的だった。
 しかし,久しぶりの 「お散歩」 で,しかも,「ニ上山」 とはいえ,山登りを控えている。中学生の頃のような体力はすでにない。今日の予定を思うと,「當麻寺駅」 で降り,体力を温存することにした。(地図参照

 當麻寺駅を降り,寺への参道を歩いていると,「相撲館」 があり,その前に,「当麻蹶速 (たぎまのけはや)」 の墓と伝えられる五輪塔がある。鎌倉時代のものではないかと言われている。「当麻」 と書いて,現在では,「たいま」 と読むが,昔は,「たぎま」 と読んだらしい。
 当麻蹶速といえば,書紀の 「垂仁紀七年」 に,有名な野見宿禰との話が出ている。「相撲」 のはじまりである。

 

当麻蹶速之塚  当麻蹶速塚

 

 その蹶速塚の先の交差点から,ニ上山が鮮やかに見えた。

 

ニ上山 (左・雌岳,右・雄岳)  ニ上山

 

 交差点を渡り,真っ直ぐに進むと,ほどなく,當麻寺が見える。牡丹の花でも有名で,ちょうどその花の季節でもある。家族連れなど,参拝客も少なくない。
 5月14日には,有名な 「聖衆来迎練供養会式」 が行われ,その日には,さらに多くの観光客で賑わうのだろう。

 

當麻寺・東大門  白毫寺

 

 「當麻寺」 は,寺伝によると,河内国交野郡山田郷にあった 「ニ上山万法蔵院禅輪寺」 として麻呂子皇子(当麻皇子)によって創建され,後,692 (朱鳥6) 年に,皇子の孫である当麻真人国見の手によって,現在地に移築されたという。当初は,三論宗の寺であったが,時代とともに,真言宗の寺となり,さらに,鎌倉時代には,阿弥陀信仰と結びついた浄土宗も加わり,両宗に属する珍しい寺となって,現在に至る。
 そのため,南向きに建てられた,「金堂」,「講堂」,「東塔」,「西塔」 といった古い伽藍の他に,東を向いた 「本堂」 がある。そして,この 「本堂」 の本尊が,「浄土曼荼羅絹本色掛幅」 である。

 

金堂   講堂

(左)金堂  (右)講堂

本堂  金堂

 

 本堂に入ると中央の大きな厨子の中に,およそ 4 m 50 cm 四方ほどの大きな曼荼羅が掛けられている。明るい外から入ってすぐには,はっきりとは見えないが,しばらく,その前に座っていると,徐々にその図柄が見えてくる。中央に阿弥陀如来,その左右に,観音菩薩,勢至菩薩,その他,何百という仏が描かれている。
 西に向かって,極楽浄土の有様を現実に見る・・・人々は,その有難さに,思わず手を合わせたことだろう。

 ところで,現在見える 「曼荼羅図」 は,16 世紀初頭の写本である。原本は,痛みが激しく,別に保管されているという。

 元の曼荼羅を蓮糸で織ったのが,中将姫であるという伝説が残されている。
 実際に調査されたところによると,金糸を含む絹糸で織り上げられているという。しかし,當麻寺のこの曼荼羅と 「中将姫伝説」 を分けて考えることはできない。

 伝説の主人公,「中将姫」 は,右大臣・藤原豊成の娘で,継母からいろいろな迫害を受け,16 歳の時に當麻寺に入り尼僧となったという。
 天平宝字 7 ( 763 ) 年 6 月 23 日に,蓮の糸で 「當麻曼荼羅」 を織りあげ,29 歳の時,阿弥陀如来と 25 菩薩が現われ,姫を極楽浄土へ導いた。宝亀 6 (775) 年 3 月 14 日のことだという。
 中将姫伝説は,鎌倉時代に始まったようであるが,室町時代には,この伝説を元に,世阿弥が 『當麻』 や 『雲雀山』 といった謡曲をつくり,江戸時代には,近松門左衛門も作品を残しているという。そして,昭和に入って,折口信夫が 『死者の書』 を書いた。

廬 (イホリ) 堂の中は,前よりは更に狭くなつて居た。郎女が,奈良の御館からとり寄せた高機 (タカハタ) を,設 (タ) てたからである。機織りに長けた女も,一人や二人は,若人の中に居た。此女らの動かして見せる筬 (ヲサ) や梭 (ヒ) の扱ひ方を,姫はすぐに会得 (ヱトク) した。機に上つて日ねもす,時には終夜 (ヨモスガラ) 織つて見るけれど,蓮の糸は,すぐに円 (ツブラ) になったり,断 (キ) れたりした。其でも,倦まずにさへ織つて居れば,何時か織りあがるもの,と信じてゐる様に,脇目からは見えた。

    折口信夫 『死者の書』 より

 彼のこの作品には,藤原南家 (横佩家) の郎女と,姫より百年も前に刑死し,その最後の時に目にした 耳面刀自 (ミヽモノトジ) への思いに,ニ上山の墓の中で目覚めた 大津皇子の霊 とが登場する。

 そうだ,今を盛りと咲く牡丹を眺めるのもいいが,今日は,先を急ごう。大津皇子の眠る,ニ上山に登ることにしよう。
 美しい藤の花の近くにある 「北門」 を出て,登山口に急ぐ。すると,ほどなく 咲き乱れるツツジに目を奪われた。

 

藤  躑躅

 

 「傘堂」 や,あるいは,これが大津皇子の墓ではないかとも言われる 「鳥谷口古墳」 などを横目に,およそ 20 分ほど歩くと,登山口に着く。ここから,雄岳と雌岳の間の鞍部,「馬の背」 までは,1時間ほどの登りだ。登山口の南側には,ニ上山を守るように,「式内社・當麻山口神社」 がある。一瞬,立ち止まり,登山の無事を祈願,山道に入っていく。

 

鳥谷口古墳  鳥谷口古墳

 

 「ニ上山」 は,現在では,「にじょうさん」 と呼んでいるが,古くは,「ふたかみやま」 と呼ばれていた。江戸時代の本居宣長が,「ニかみ山は現在 爾 (に) じょうがだけと呼ばれているが,まことになげかわしいことだ,といっている」 ( 田中日佐夫 『 ニ上山 <新装版> 』 ) というように,江戸時代にはすでに,「ふたかみ」 という名は忘れられようとしていた。
 しかし,私などは,「にじょうさん」 と,まるで友だちを 「さん」 づけで呼ぶようで,親しみがわく。おそらく,現在の多くの人は,そんな親しみを感じているのではないだろうか。 概念図

 大阪と奈良の間は,北側は,生駒山,信貴山,高安山などの 「生駒山地」 で,南側は,大和葛城山,金剛山などの 「金剛山地」 が横たわっている。この2つの山地の間を大和川が流れ,その大和川と大和葛城山の間に 「ニ上山」 がある。
 ニ上山と葛城山系は,「竹内峠」 でつながっていると言えるが,竹内峠の所で,深く切れ込んでおり,遠くから見ると,ニ上山は,際立った存在に見える。しかも,大阪南部,大和南部からは,おそらくどこからでも,その山容を捉えることができたろう。それゆえに,難波・堺の津から奈良・飛鳥への道標となったのだろう。(右図参照)

 久しぶりの山登りだ。ゆっくり,ゆっくりと足を運ぶ。晴れ渡った空から,午前の眩しい光が,樹木を通して降り注ぐ。できるだけ,木陰を選んで歩くが,それでも汗がにじんでくる。
 時々,家族連れや,年配のご夫婦らしい登山客とすれ違ったり,追い越したりする。見ず知らずの人同士が,出会うたびに,「こんにちは」 と声を掛け合う。そうして,あいさつをすると,不思議に力が湧いてくるような気がする。

 途中,「祐泉寺」 という寺というか,お堂がある。ここから,「岩屋峠」 への道と 「馬の背」 への道に分かれる。「馬の背」 に向かう。急な登り坂が続く。息がはずむ。足が悲鳴を上げそうになる。すでに,目の先には,樹木に覆われてはいるが,枝の隙間に空が見え,稜線が近いとわかる。地図で確かめると直線距離は 1 km に満たない。30 分ほどの登りだという。
 しかし,荒い呼吸をしながら,少し登っては休み,少し高度をかせぐと立ち止まる,ということを繰り返さなくてはならなかった。肩で息をし,膝に手を置いて休んでいる間に,一度は,追い抜いた,小学生らしい2人の子どもを連れた家族連れに,あっという間に,追い越されてしまった。

 祐泉寺から確かに 30 分かかったが,やっと,雄岳と雌岳の中間の鞍部,「馬の背」 にたどり着く。思わず,石の腰掛に座り込み,お茶を飲んだ。美味しい。
 持ってきた登山地図のコース・タイム通りだったが,以前なら,もう少し早く着いただろう,と若い頃を懐かしんでしまう。

 

馬の背から雌岳を望む  馬の背

 

 弁当をつかっている人もいたが,まだ,11 時半。そういえば,朝ご飯を食べていなかった。が,先に,雄岳に登ってしまおう。10 分ほどの登りだ。そう思っていると,隣の腰掛けに座っていた男性が立ち上がり,雄岳に向かった。つられるように,私も立ち上がる。

 足元には,薄くはがれ,先の鋭い石がごろごろしている。ニ上山は,火山だったのだ。
 この石も鋭い縁を持っているが,これではなく,サヌカイトという石の産地としても有名だ。黒い光沢のある硬い石だが,鏃などの石器に使われた石だ。ニ上山が古代から注目されたのは,そういった意味もある。

 

山道の岩石  石

 

 10 分ほど登ると山頂にでた。海抜 517.2 m,決して高い山ではない。平らな雄岳山頂には,数本の八重桜が咲いていた。

 

雄岳山頂の八重桜  八重桜

 

 山頂から少し下がった飛鳥を見下ろせる所に,「大津皇子墓」 がある。

 

大津皇子の墓  大津皇子の墓

 

 大津皇子は,天智天皇の娘である,「太田皇女」 と天武天皇との間に生まれた皇子である。『日本書紀』 の 「持統紀」 には,次のようにある。

容止墻 (ようしたか) く岸 (さが) しくして,音辞 (みことば) 俊れ朗 (あきらか) なり。・・・(中略)・・・ 長 (ひととなる) に及 (いた) りて弁 (わきわき) しくして才学有 (かどま) す。尤も文筆を愛みたまふ。詩賦の興,大津より始れり。

 才能豊かな青年であったが,天武天皇が亡くなったあと,朱鳥元 ( 686 ) 年 10 月に,「謀反」 の疑いがかかり,訳語田 (をさだ) の地で死罪となってしまう。まだ,24 歳であった。妃の山部皇女もあとを追って死んでしまう。
 死に臨んで,大津皇子は,次のような詩を残している。

  五言 臨終 一絶
金烏臨西舎    金烏 (きんう) 西舎に臨 (て) らい
鼓声催短命    鼓声 (こせい) 短命を催 (うなが) す
泉路無賓主    泉路 (せんろ) 賓主 (ひんしゅ) 無し
此夕誰家向    此の夕 (ゆうべ) 家を離 (さか) りて向かう

 また,『万葉集』 には,辞世の歌が収められている。

   大津皇子の被死 (みまからしめら) えし時,磐余の池の般 (つつみ) にして流涕 (かなし) みて作りませる御歌
ももづたふ磐余 (いはれ) の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隱りなむ   ( 『万葉集』 四一五歌 )

 伊勢の斎宮であった,姉の 大来皇女は,その年の 12 月,都に帰ってくると,ニ上山に葬られたという弟を嘆き,こんな歌を残している。

   大津皇子の屍 (みかばね) を葛城のニ上山に移し葬 (はふ) りし時,大來皇女哀傷 (かなし) みて作りませる御歌ニ首
うつそみの日となる吾や明日よりはニ上山 (ふたかみやま) を兄弟 (いろせ) とわが見む   ( 『万葉集』 一六五歌 )
磯の上に生 (お) ふるあしびを手折 (たを) らめど見すべき君がありといはなくに   ( 『万葉集』 一六六歌 )

 この 「事件」 には,裏がある。天武天皇の皇后,「う野皇女」は,大津皇子の母である太田皇女の実妹であり,また,天武天皇との間に,草壁皇子という皇太子を生んでいる。  (注:「う野皇女」 の 「う」 という文字が出ませんでした。「盧」 を偏にし,「鳥」 を旁とする漢字です。)
 天武天皇が亡くなると,皇位継承問題が持ち上がる。候補者は,草壁皇子と大津皇子。共に,天智天皇の娘を母とする。大津皇子の母,太田皇女は,すでに亡くなっていたが,彼自身は,先にも書いたように,才能あふれる青年であった。一方,草壁皇子は,れっきとした皇太子である。ただ,病弱だったともいう。

 皇后は思う。夫の天武天皇は,壬申の乱により,天皇の地位を奪った。
 一説には,近江京から程近い,山科の地で,天智天皇を暗殺したともいう。確かに,天智天皇の死には,疑問が少なくない。
 壬申の乱のおり,時の大海人皇子と行動を共にし,目の当たりに事の成り行きをつぶさに見た彼女なら,壬申の乱と同じことが,草壁と大津の二人の皇子の間に起こらないとも限らない。そう思ったに違いない。もし,そんなことが起きたならば,病弱な我が子より,才気煥発な大津皇子に分がありそうだと思える。
 そこで,先手を打ち,大津皇子を陥れた・・・それが,事件の真相らしい。その素早さは,10 月 2 日に大津皇子を逮捕すると,その翌日には処刑してしまっているというくらいだ。
 こうして,草壁皇子が即位したかというと,そうはならなかった。翌年の 4 月,皇子は亡くなってしまうのである。あるいは,大津皇子の祟りであったのかもしれない。
 我が子を亡くした母は,草壁皇子の子,孫にあたるまだ 8 歳の軽皇子が即位できる年齢に達するまでの間,自ら天皇となった。それが,「持統天皇」 と謚された天皇である。

おれは,このおれは,何処に居るのだ。・・・・・・それから,こゝは何処なのだ。其よりも第一,此おれは誰なのだ。其をすつかり,おれは忘れた。
だが,待てよ。おれは覚えて居る。あの時だ。鴨が声を聞いたのだつけ。さうだ。訳語田 (ヲサダ) の家を引き出されて,磐余の池に行つた。堤の上には,遠捲きに人が一ぱい。あしこの萱原,そこの矮叢 (ボサ) から,首がつき出て居た。皆が,大きな喚 (オラ) び声を,挙げて居たつけな。あの声は残らず,おれをいとしがつて居る,半泣きの喚き声だつたのだ。
其でもおれの心は,澄みきつて居た。まるで,池の水だつた。あれは,秋だつたものな。はつきり聞いたのが,水の上に浮いてゐる鴨鳥の声だった。今思ふと――待てよ。其は何だか一目惚れの女の哭き声だつた気がする。――をゝ,あれが耳面刀自だ。其瞬間,肉体と一つに,おれの心は,急に締めあげられるやうな刹那を,通つた気がした。俄かに,楽な広々とした世間に,出たやうな感じが来た。さうして,ほんの暫らく,ふつとさう考へたきりで・・・・・・,空も見ぬ,土も見ぬ,花や,木の色も消え去つた――おれ自分すら,おれが何だか,ちつとも訣らぬ世界のものになつてしまつたのだ。
・・・(中略)・・・
をゝさうだ。伊勢の国に居られる貴い巫女――おれの姉御。あのお人が,おれを呼び活けに来てゐる。
姉御。こゝだ。でもおまへさまは,尊い御神に仕へてゐる人だ。おれのからだに,触つてはならない。そこに居るのだ。ぢつとそこに,踏み止つて居るのだ。――あゝおれは,死んでゐる。死んだ。殺されたのだ。

    折口信夫 『死者の書』 より

 ちょうど,12 時になった。私は,再び,雄岳山頂の広場に戻り,八重桜の下で,おにぎりを食べる。木陰を通る風が,汗ばんだ身体を冷やしてくれる。
 今は,生い茂る木立ごしにしか眺めることはできないが,あの墓に眠る大津皇子は,この 1300 年あまりの歳月,どのような想いで,飛鳥の地を見下ろしていたのだろう?

(この項,続く)


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