たまにはお散歩


 

(番外編) 大阪城メモ (2004. 5. 2.)

 

 さて,先日,5月2日に お散歩した 「大阪城」 あたりについて,少しだけ,書いてみることにした。地図は,少々古いが,大きな違いはない。いつもは,別窓で出すようにしているが,今回は,そのまま貼り付けておいた。

 

大阪城周辺地図  大阪城周辺地図

 

 考えてみれば,休みの日に,わざわざ職場の近くまで出かけたせいか,どうも,いつもの 「お散歩」 と勝手が違う。それに,1月の 「お散歩」 の際に,足を痛めたこともあり,また,新しい靴を履いていたせいもあって,靴擦れしてしまい,途中から,足取りがすっかり鈍くなってしまった。せめて,「真田丸」 跡と考えられているあたりまでは行こうと思ったのだが,途中で諦めてしまったものだ。

 以下,写真をご覧いただきながら,写真の説明をしていくだけにしよう。

大手口   外堀を南側と北側に分けるように,土橋が通じ,その先に,「大手口」 がある。大阪城の表玄関だ。

大手口 さほど大きな門ではない。この門をくぐると,「大手口枡形」 に入る。

大手見付石 門を入ってすぐに目につくのが,正面の大きな石組みだろう。一番大きな 「大手見付石」 は,城内第4位の巨石で,推定 108 トンという。肥後の加藤忠広が,小豆島から運んできたと言われている。

大手大門・多聞櫓 大きな黒い門は,「二の丸」 への大門で,その門の上には,「多聞櫓」。
 正しくは,「大手口枡形多聞櫓」 と呼ぶべきで,もともとは,「京橋口」 や 「玉造口」,「桜門」 など,門のあるところには,枡形があり,枡形には,「多聞櫓」 があった。だが,この 「大手口」 以外の 「多聞櫓」 はすべて焼失してしまっており,現存するのは,ここだけである。
 この 「門」,「櫓」 も,天明 3 (1783) 年に雷で焼失し,嘉永元 (1848) 年に再建されたもの。

大手枡形内・塀 二の丸に入る前に,先ほどの 「大手口」 の内側を見ておこう。
 大手口のすぐ南側の塀だが,上部には,所々に,「鉄砲狭間」 が開いている。石段を登って,その狭間を覗くと,眼下は,外堀。そして外堀の向こうに,改築中の大阪府警や新装なったNHKのビルが望める。

大手門の柱継ぎ 大手口内側の柱に注目する。いったい,どのように組み合わさっているのか,見当のつかないような,継ぎ方が施されている。

 このような構造物で区切られた 「枡形」 は,内部からは,外へ兵が繰り出す前の待機の場所であり,外部からの侵入者に対しては,防衛線になるという。

多聞櫓・千貫櫓 いよいよ 「大門」 をくぐって 「ニの丸」 に入る。
 「多聞櫓」 と 「千貫櫓」 の特別公開だという。せっかくだから,内部を拝見する。
 左の写真は,大手口の土橋から見たものだが,左側の立派な櫓が,「千貫櫓」 だ。ちょうど,大手口を守るようにすぐ北側にある。その右側に見えるのが,「多聞櫓」。

 「千貫櫓」 という名前は,大坂城の前身の石山本願寺の時代からあったようだ。織田信長の石山攻めの際,ちょうどこのあたりにあった櫓から反撃され,悩まされたという。信長方の将兵らが,「千貫文払っても,あの櫓を手に入れたいものだ」 と言ったとか。それが,「千貫櫓」 の名前の由来だという。
 解体修理された際に,土台に,「元和六年御はしら立九月十三日」 という墨書きが発見された。城内で最古の建築物だ。

多聞櫓・渡櫓 まず,多聞櫓に入る。あの門の上部の 「渡櫓」 部分を通る。武者窓から覗くと,眼下に,大手口枡形が見える。侵入した敵の様子は,手に取るようにわかるだろう。

多聞櫓・渡櫓 その窓の反対側には,板敷きの細長い小部屋がいくつもある。戦の際には,そこに兵たちが詰めていたのだろう。

多聞櫓 しばらくすると,広い櫓内部に出る。
 

千貫櫓内部 多聞櫓をいったん外に出て,千貫櫓に入る。内部は,思いのほか広い。2階建ての櫓だが,2階部分は,公開されていない。

多聞櫓・渡櫓 千貫櫓の南向きの武者窓から外を見ると,ちょうど,「大手口」 が見える。西側の窓からは,大阪府庁なども望める。また,南側,西側の中央部分の武者窓は,堀に対して,少しせり出しており,床には,細い戸がついており,その戸を開けると,石垣が見える。堀を渡り,石垣を登ってくる敵に対する攻撃口になるという。
 

内堀西南面 いよいよ本丸に接近する。本丸の周囲には,「内堀」 がある。この内堀の南側部分は,空堀になっている。いつからなのか,はっきりしないが,再建当初から,空堀だったらしい。

桜門 空堀の内堀の南側の土橋を渡ると 「桜門」 がある。いよいよ 「本丸」 だ。

蛸石 桜門をくぐると,「蛸石」 が目につく。巨大な石で,畳36畳分の広さが見えているという。推定重量は,130 トンで,大阪城 随一の巨石。
 左側には,「振袖石」 という,これも3番目に大きな石がある。
 本丸に入る重要な 「枡形」 であるから,本来なら,ここにも 「多聞櫓」 や 「大門」 があったのだが,戊辰戦争の際に,焼け落ちたという。

旧・市立博物館 本丸東側に,古い洋館が建っている。もともとは,第4師団司令部庁舎として新築され、戦後は大阪府警本部にもなったことのある重厚な建物だ。その後,「大阪市立博物館」 となったが,2001 年 3 月 31 日をもって閉館した。

天守閣 その博物館の前から,天守閣を見上げる。
 平成の大改修 (平成7 〜 9年) を経て,大きく生まれ変わった。

 大阪城のはじまりは,明応5 (1496) 年,蓮如上人が,「大坂御坊」 を営んだことから始まる。天文2 (1533) 年には,山科にあった 「本願寺」 を大坂に移した。

 元亀元 (1570) 年,織田信長が,石山本願寺を囲み,以後10年間に渡って,攻防が続いた。
 天正8 (1580) 年に,信長と本願寺との間で和議が成立し,本願寺は紀州へ去り,堂塔はすべて焼き払われた。

 天正11 (1583) 年,豊臣秀吉が,石山本願寺跡に,築城を始める。これが,大坂城である。
 その規模は,現在よりも数倍の広さを誇った。創建時の天守閣は,信長の 「安土城」 をモデルにしながらも,規模の上では,すべて大きくした。黒塗りの五層の天守閣には,ふんだんに黄金を使っていたとも言われている。

石山本願寺 推定地 しかし,秀吉の死後,関ケ原の合戦で,西軍は敗れ,かろうじて一大名として,大坂城を守るだけとなったが,それも束の間。家康の策謀にあい,慶長19 (1614) 年,「大坂冬の陣」 の後,難攻不落の城であった,その要の外堀を埋められ,わずか5ヵ月後の 元和元 (1615) 年には,「大坂夏の陣」 で落城。豊臣家が滅亡することになる。

 松平忠明が,大坂城主となって,大坂の町は,復興される。
 その後,大坂は幕府の直轄地となり,元和6 (1620) 年,幕府は,諸大名に,大坂城の再築を命じ,寛永6 (1629) 年,10年の歳月をかけて,徳川時代の 「大坂城」 が完成した。

 この築城の際,三の丸が,市街地に解放されたため,城地は,かなり縮小されたが,全体に,盛土され,豊臣時代の土台は,埋められてしまった。また,天守閣は,豊臣時代のものより,さらに大きなものに生まれ変わった。

 寛文5 (1665) 年,落雷により,天守閣が炎上。以後,昭和6 (1931) 年に,再建されるまで,大坂城には,天守閣がなくなったのである。
 その間,また,その後も,再三に渡って,落雷や戦争のために,数多くの建物が焼失,破壊された。

天守閣より東を見る 天守閣に入る。現在内部は,8階建てになっており,最上階の8階からは,大阪市内を展望できる。
 左の写真は,東北方面。一番手前の,青い丸い屋根が見えるのが,いろいろなコンサートなどが催される 「大阪城ホール」。

天守閣より北を見る これは,北側。大阪駅,梅田方面。

天守閣より西を見る 樹木のすぐ向こう,一番左側の建物が,「大阪府庁」。

天守閣より南を見る 南側。写真右奥に,高くかすかに見えるのが,「通天閣」。画面中央に見える広場は,「難波宮址」。

内堀東側 内堀に沿って歩く。写真は,北東角のあたりから。

内堀東側 本丸に北から入る,「極楽橋」。

北西から 極楽橋を過ぎ,内堀の北西の角付近から見上げる。

乾櫓 「京橋口」 から,外堀の外へ出る。北西の角の櫓が,この 「乾櫓」 だ。小堀遠州の設計になる建物で,元和6年の最古の建物のひとつ。

六番櫓 「乾櫓」 から,外堀沿いに南下する。最初に見た,千貫櫓,大手口 を過ぎて,南西の角に達すると,そこに,「六番櫓」 がある。

 大阪城は,北側は,淀川,寝屋川や平野川といった川に守られており,東側は坂があり,その坂の下の地域は,豊臣,江戸初期の頃でも,湿地帯であった。また,西側には,もともとは,三の丸を広くとり,その外側には堀を築いてもいたし,また,坂が多く,海に近かったために,やはり,砂地の土地であったなど,三方は,「自然」 にも守られていた。
 しかし,南側は,天王寺あたりから突き出た台地になっていたため,城の一番の弱点は,この南面にあった。「大坂の陣」 の折,真田幸村が,惣構えの外に,「真田丸」 を築いたのも,このためだった。
 徳川幕府が再建した大坂城でも,外堀南側の守りとして,7つの櫓を造ったほどである。

 現在,残っているのは,寛永5 (1628) 年創建の 「一番櫓」 と 「六番櫓」 の二つだけである。

 ところで,この 「六番櫓」 の下の石垣に注目する。堀の水面から少し上の所に,茂みがある。その茂みの左上の部分が,黒っぽく見える。

六番櫓下の石垣の穴 アップで撮ってみた。
 石垣の上部からは,15 メートルくらい下がったところ,水面からは 8 メートルほどの高さ。明治以後,陸軍が作った可能性が高いとされているが,何のために作られたのか,謎の穴である。

教育塔 駆け足で,大阪城を回ってみた。その大阪城公園の南の端に,「教育塔」 がある。
 これは,室戸台風 (昭和9 (1934) 年) の際,大阪府下で,校舎の倒壊などで,教職員 18 名,児童・生徒 676 名の犠牲者が出た。その犠牲者と,明治の学制頒布以後に,殉職した教師,殉職学生・生徒・児童・園児を慰霊するために,昭和11 (1936) 年に建立されたものである。

難波宮祉から 最後に,「難波宮祉」 まで足を伸ばした。昭和27 (1952) 年から,大阪市立大学の山根博士を中心に,発掘調査が続けられ,今日まで,ここが,間違いなく,天武朝時代まで続いた 「難波宮址」 であることが確認されてきている。今も,周辺では,発掘調査が続けられているところだ。
 その一部が,公園として,保存されているが,そこから,大阪城を振り返ってみる。
 かっては,偉容を誇った 「大阪城」 も,今は,ビルに取り囲まれてしまっている。


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