たまにはお散歩


 

第7回 哲学の道 (2002. 3.19.)

 

 久しぶりに京都に出かけようと思った。生まれてからこれまで,ずっと住んでいる大阪や,学生時代から,何度も足を運んでいる奈良に比べると,京都は,私にとっては,遠い町だ。これまでに,どれくらい訪れたろう。おそらく,どんなに数えても両手の指でこと足りるだろう。
 一千年の都・京都。その千年という 「歴史」 の 「重さ」 が,私を躊躇わせてきたのかも知れない。

 藤原氏の時代から,源氏,足利の時代,織田信長をはじめとする戦国武将の時代,豊臣,徳川の時代。政治の中心ではなかった時代もあるが,やはり折にふれ, 「都」 が 「歴史」 の舞台に登場する。
 その 「歴史」 の中には,権力者だけではなく, 「仏教」 の変転と,それが貴族・武士階級だけではなく,庶民の間にも浸透していくさま,その 「町衆」 とも呼ばれる,民衆の息遣いを無視できない。そうしたすべてが, 「歴史の重み」 として感じられる。
 今回の 「お散歩」 が,その 「重み」 に, 「京都」 という町に,私自身が,まずは 「なれる」 ための,第一歩になるだろうか。

 京阪電車・淀屋橋駅から 「特急」 に乗る。50 分で,京都だ。本当は, 「三条駅」 で降りるつもりだったが,車窓から差し込む,春の陽射しにうとうとしてしい,気がつくと,終点の 「出町柳」 に着いていた。 (地図参照
 地上に出ると,叡山電鉄の 「出町柳」 駅。この駅からは,北へ,比叡山へ,あるいは,貴船,鞍馬へと線路が続く。それもいい・・・が,また,別の日に,そう夏場がいいかもしれない。

 

叡電・出町柳駅  出町柳

 

 出町柳駅からすぐ西には, 「鴨川」 沿いに南北に通じる 「川端通」 。その川端通を渡ると, 「河合橋」 が鴨川にかかっている。
 この橋の少し下流で,鴨川は,北北西から流れてくる 「鴨川」 と北北東から流れてくる 「高野川」 とが合流している。そこに,幼稚園児だろうか,お弁当を広げる用意をしていた。

 

鴨川   河合橋から大文字山を見る

(左)鴨川と高野川  (右)大文字山を見る

 

 川端通を少し下がって行くと 「今出川通」 に出会う。その道を東に向かう。
 この今出川通は,西に行けば, 「西陣」 , 「北野天満宮」 へと続く。それもまた,いずれ訪れたい場所だ。今日は,しかし,東に向かう。
  「東大路通」 との交差点が, 「百万遍」 。
 そこからしばらく,京都大学の学舎が続く。すれ違う学生は,京大生だろうか。

 京都大学のすぐ東側の小山は, 「吉田山」 。山を右に見ながらさらに進むと 「白川通」 との交差点に出る。その先に続く道が, 「銀閣寺道」 だ。

 平日とはいえ,この門前町は賑やかだ。もちろん,学生ばかりではなく,年輩の旅行者,海外からの旅行者の姿も少なくない。
 左右の土産物屋,食べ物屋も,いかにも観光地らしい。が,どこででも見かけるキーホルダーやちょうちん,どういうわけかアイドルの写真をプリントしたTシャツなどを並べる店もあるのだが,そんな店より目に付くのは, 「京扇」 の店, 「ぜんざい」 や 「抹茶のソフトクリーム」 を売る店, 「八ッ橋」 の店, 「京漬け物」 の店の方だ。こういったところにも 「京都」 の 「底力」 を感じてしまう。

 古びた門をくぐり,椿の生垣の間を進む。そこで拝観料を払い,小さな門をくぐると,いきなり出会う。銀閣だ。

 

銀閣(観音殿)(国宝)  銀閣

 

 足利義政は,東山のこの地に山荘を建てようとした。文明 14 (1482) 年のことだ。それは,祖父である足利義光の 「金閣」 を意識してのことかもしれない。しかし,決定的に異なるのは,義満の 「金閣」 は,彼の政治力,権力の象徴でもあったが,ここ 「銀閣」 は,単なる山荘だ。
 権力をもった有力な守護大名の力をそぎ,天皇家にも影響力を持った祖父・義満や,その権力をさらに強化しようとした父・義教らと違って,政治力という点では,義政にはなかった。というより,父が暗殺され,幼くして将軍にならざるを得なかった彼には,もとより政治をする気がなかったのだろう。祖父や父の 「政治」 を嫌った(?)守護大名らによる 「政治体制」 の中では,彼が出る幕はなかったのかもしれない。

 

銀沙灘と向月台から  銀沙灘と向月台から

 

 いや,それ以上に義政自身の性格・資質といったものが, 「政治」 とは無縁だったとも考えられる。この山荘の 「銀閣」 や 「庭園」 を見ているとそんな感じが伝わってくる。政治家ではなく,文化人だったのだろう。
 禅宗の影響が濃いとはいえ,書院造りの建物,庭園,茶の湯,花・・・そうした 「現代」 にも続く日本文化が,ここから始まったといえるかもしれない。無骨な武士階級の 「教養」 が,やがて庶民の暮らしの中にも入り込む。その第一歩といってもいいかもしれない。
 もっとも,障子の明るさや苔むした庭,池を渡る風・・・昔は,どこにでもあったそういう 「家屋」 も,今や 「歴史」 になってしまいつつある。マンション住まいの私には,特に,そんな思いがする。

 

東求堂(国宝)  東求堂

 

 銀閣もいいが,「錦鏡池」 ごしにみる 「東求堂」 の落ち着いた佇まいも美しい。一層の入母屋造り,檜皮葺きの書院造りの建物としては,現存する中では,最古のものという。
 中には, 「同仁斎」 という四畳半の茶室があり,四畳半という間取りと草庵茶室の始まりとも言われている。ここから,東山文化が生み出されたのだろうか・・・
 義政の死後,東山殿は,臨済宗相国寺派の寺,慈照寺となった。

 銀閣寺を出て,しばらくみやげ物などを眺めながら戻る。細い水路に架かる橋がある。この水路が, 「琵琶湖疎水」 だ。

  「琵琶湖疎水」 は,明治14年に京都府知事となった北垣国道が,都が東京に移り,人口も減り,活気のなくなった京都を復興させるために計画したものだ。琵琶湖と宇治川をつなぎ,電力発電,水運など,産業を復興させ,京都を再生させようという。
 明治18年に着工され,明治23年に 「第1疎水」 及び 「分線」 が完成,明治25年〜27年には鴨川運河がつくられた。さらに,明治45年に, 「第2疎水」 も完成した。
  「蹴上」 , 「夷川」 , 「伏見(墨染)」 には発電所が作られ,新しい工場や路面電車なども市内に走るようになり,水道事業も始まったという。

 

琵琶湖疎水と哲学の道  哲学の道

 

 銀閣寺から南に続く疎水は, 「琵琶湖疎水 分線」 で,この 「疎水分線」 にそった小径が 「哲学の道」 と呼ばれている。
 『善の研究』で知られる西田幾太郎らが,この疎水沿いの静かな道を思索にふけりながら歩いたという。
 今も静かな道だ。落ち着いた民家の間には,おしゃれな喫茶店やみやげ物を並べる小さな店も点在する。ふだんは,せわしなく足を運ぶ人も,ここでは,自然と歩みがゆるやかになる。写真では,わかりにくいが,左の写真の道路標識の下で,疎水と家並みをスケッチしている女性がいた。そんな姿も絵になる道である。

 

哲学の道  道行く人  雪柳

 

 疎水沿いには,雪柳,れんぎょうなどの花が咲いていたが,桜の木も多く,見ると間もなく咲きそうだ。来るのが,1週間,早過ぎたのかもしれない。そう思って歩いていると,一輪だけ,早々と咲いているのを見つけた。

 

桜一輪  桜

 

 哲学の道に沿っても,神社やお寺が点在する。
 疎水を渡り,東山の方に少し坂を登っていくと, 「法然院」 がある。浄土宗の開祖,法然上人ゆかりのお寺だ。萱葺きの山門が,美しい。

 

法然院山門  法然院山門

 

 奈良時代の仏教は, 「国家」 のためのものだった。そして,今,私たちが考える 「宗教」 というより, 「学問」 に近い。実際,東大寺や興福寺で,お葬式がされることはない。 「個人」 のものではなかったのだ。そうした 「仏教」 が,ここ京都で,変化していく。

司馬  宗教という場合,日本人一般のなかに,人間の力ではどうしても越えられない部分についての,ある一つの救済というイメージがありますね。人間にとってどうしても越えられない部分は,最終的には何かというと,死の問題ですね。死の問題を一つの契機にして,死という問題をどう越えるか,というときに宗教が生まれるんじゃないか・・・。
林屋  その意味で,個人の救済をもっとも熱心に考えたのが浄土教ですね。
司馬  しかも国家と関わりなく。
林屋  関わりがなくて,そこに浄土教の魅力があったわけです。それから救済という場合,死という問題と同時に,もう一つ,越えることのできないものとされていた,身分の問題に目をつけたところが,親鸞の偉いところですね。
 法然さんは恵心僧都以来の死の問題に,もっとも直接に関わった人でしょ。そうすると親鸞さんは同じことを言ってもだめですね。それで親鸞さんは,その点ではっきり,越えることのできないとされていた身分の問題を,低い身分の人たちにまで,救済というか,そういうものを伸ばしていった。(中略) そうするとそこには非常に大きな未開拓の分野があるわけで,対象が広がったですね。恵心僧都のあいだは,人間といっても貴族だけだった。法然は民衆に広げた。親鸞はもう一つ下層の人たちに広めたのでしょう。

    司馬遼太郎・林屋辰三郎 『歴史の夜咄』 (1993,小学館ライブラリー)

 哲学の道を歩きつづけよう。
 法然院の他,安楽寺,霊鑑寺などの寺や,ねずみの社としても有名な大豊神社などがある。が,今日は,立ち寄らずに歩く。

 疎水が橋の下をくぐるとトンネルの中に消える。その若王子橋を渡ると 「熊野若王子神社」 がある。
 永歴元(1160)年に,後白河法皇が禅林寺の守護神として,熊野権現を迎えたのがはじまりという。が,若王子神社そのものは,それ以前にすでにあったようだ。

 

若王子神社前  若王子神社

若王子橋からの疎水      熊野若王子神社

 

 ところで,この神社の東に 「若王子山」 がある。東山の一つだ。今までも,何気なく 「東山」 と書いてきたが,京都・平安京の東を守る 「東山」 であるが,これは,比叡山から稲荷山までを指す。
 中国の嵩山のことを 「六々峰」 とも呼ぶそうだが,それにならって東山も, 「東山六峰」 とか 「六々峰」 とも呼ばれていたという。俗に 「東山三十六峰」 というのは,このためである。

  「哲学の道」 もここまでだ。いや,ここから北に向かう 「入り口」 というべきか。

  「哲学の道」 を離れて,少し南に下がると, 「永観堂」 がある。浄土宗西山禅林寺派 総本山・禅林寺である。
 弘法大師・空海の弟子のひとりである 真紹僧都が,もとは藤原関雄の閑居あとに建立したのがはじめである。当初は,真言宗の寺だったわけだ。貞観5(863)年,清和天皇から, 「禅林寺」 という定額を賜ったのがはじめである。
 火災により焼失したが,第5代住職の深覚の時,復興し,その頃から,文人墨客が集うようになったという。そして,第7代住職 永観の頃から,念仏道場となったらしい。(現在,禅林寺というより, 「永観堂」 と呼ぶ方が通りがいいが,永観が住職となってからのことだ。)

  「念仏道場」 というが,法然らの 「念仏」 より少し古い。永観は,東大寺などで学び,元興寺極楽坊で智光という僧が 「念仏」 していたいう。 「奈良仏教」 に,すでに 「念仏」 の兆しがあったわけだ。そんな頃に,永観は,奈良で学び, 「念仏」 の影響を受けていたらしい。諸方をまわり,また,延久4(1072)年に,山城国・光明山に蟄居していた永観は,そこを出て禅林寺に入る。

永観が遍歴した諸事の浄土教の救済の在り方が,大衆のためのものでなく,いずれのところにおいても,一部の特権階級とみられる貴族を対象にしたおしえであることに気づくと・・・(中略)・・・おそらく失望を感じたのであろう。

    浄土宗西山 禅林寺派宗務所(編) 『永観堂・禅林寺』 (探求社)

 法然に先立つ永観の存在も, 「仏教」 の移り変わりを考える時,興味深い存在ではある。

 永観堂には,狩野派や長谷川派の,あるいは雪舟派など素晴らしい襖絵の数々もあり,釈迦堂から順に拝観することが出来る。また,本堂には,振り返るように首を左に曲げた, 「みかえり阿弥陀」 が安置されている。

 永観堂を出て,少し南へ行くと 「南禅寺」 に出る。

 寛永5(1628)年,大阪夏の陣で亡くなった将兵を弔うために,藤堂高虎が再建したという,現在の南禅寺三門は,高さ約 22 m を誇り,日本三大門のひとつに数えられる。歌舞伎 『楼門五三桐』で石川五右衛門が, 「絶景かな、絶景かな」 と大見得を切る場所としても有名だ。拝観料を払い,三門内の急な階段を登る。
 楼からの眺めは,確かに絶景である。西には,京都の市街地,東側は,東山の山並み。紅葉の季節などは,もっと美しい眺めではないだろうか。

 

南禅寺三門  鴨川

(左)南禅寺三門  (右)南禅寺三門から永観堂・多宝塔方面を眺める

 

 このあたりで,今日の 「お散歩」 をひとまず終えよう。もう,午後2時を過ぎてしまったが,まだ,昼食を摂っていない。南禅寺のあたりといえば, 「湯どうふ」 が有名だが,このあたりで食べると,ちょっとお高くつきそうだ。観光地を離れ,市街地に戻って昼食にしよう。

 市街地に向かうと,着物姿に黒い筒を持つ女性の姿が目立つ。どこやらで,大学の卒業式でもあったらしい。
 平安神宮に近づくと袴姿の女性の数がさらに増える。 「京都会館」 で,某女子大の卒業式があったようだ。
 この平安神宮は,平安京千年の記念に,平安遷都 1100 年にあたる明治 28 年に造られた新しい神社だ。今日は,さりげなく通り過ぎるだけにしよう。

 

平安神宮 応天門  平安神宮  

 

 平安神宮の応天門を右に見,卒業式あとの着飾った女子大生で賑わう京都会館前の通り, 「二条通」 を鴨川に向かう。
 鴨川にかかる二条通の橋, 「二条大橋」 から,鴨川の堤に下りる。二条河原・・・そういえば・・・

此比 都ニハヤル物。夜討,強盗,謀綸旨(にせりんじ)。召人(めしうど),早馬,虚騒動(そらそうどう)。生頸(なまくび),還俗(げんぞく),自由出家。俄大名,迷者(まよいもの),安堵(あんど),恩賞、虚軍(そらいくさ)。本領ハナル丶訴訟人。文書入タル細葛(ほそつづら)。追従(ついしょう),讒(ざん)人,禅律僧。下克上スル成出者。器用の堪否(かんぷ)沙汰モナク。モル丶人ナキ決断所。キツケヌ冠上ノキヌ。持モナラハヌ笏持テ。内裏マジハリ珍シヤ。・・・・・

 南北朝時代の不安定な世相を風刺した,この 「二条河原落書」 は,歴史的な有名な落書き。どこの誰が書いたのか知れないが,単に調子がいいというだけでなく,きわめて,適切に,鋭く世の中を見ている。
 改めて読むと,現代にも通じるような,・・・それが面白くもあり,ため息が出る。

 二条から三条へ,鴨川の堤を歩いていく。そろそろ日暮れも近づいてきたが,多くの人が河原に腰掛け,くつろいでいる。対岸を見ると,数組の若いカップルが等間隔に腰をおろしている。これから,ますます増えてくるのだろう。ひとり歩くオジサンなどは,退散した方が良い時間になったようだ。

 

鴨川  三条大橋

(左)御池大橋下から三条大橋に向かって  (右)三条大橋    

 


 琵琶湖疎水については,京都市水道局のHPの 「琵琶湖疎水」 が参考になりました。


目次へ inserted by FC2 system