たまにはお散歩


 

第4回 平城京周辺 (2001. 9.25.)

 

 今年の夏は,体温を越す勢いの日が続いた。そんな真夏の休日には,クーラーの効いた部屋で,音楽など聴きながらずっとごろごろしていた。
 クーラーのスイッチを入れなくなってどれほどになるだろう。秋の彼岸も過ぎた今,まだ日差しは強いものの,吹き抜ける風には,冷たさが感じられる。久しぶりに 「お散歩」 に出かけようと思い立った。
 どこに行こうか,思い浮かぶ場所は多い。その中で,今回は,「平城京」 の辺りを回ってみようと思った。(地図参照

 近鉄奈良線・新大宮駅で降りる。終点・奈良駅の一つ手前の駅だ。駅前の道路は,交通量が多い。北へ歩いていくと,やがて国道24号線と合流し,ますます,車の量が増える。この道路は,JR奈良線と並行するように北に伸び,京都・宇治へと向かい,京滋バイパスを経て名神高速道路につながる。交通量が多いはずだ。
 しばらく排気ガスに顔をしかめながら北上し,JR奈良線が見えると,東に曲がり,すぐに北に向かう小道に入る。踏切を渡る。車の騒音は聞えるが,それでも静かな雰囲気の町並みが左右に並ぶ。すぐに,家が途絶え,左右から木々がおおいかぶさるような道の向こうに,古びた門が見えた。不退寺である。

 

不退寺南門 不退寺

 

 門をくぐると,狭い境内には,木々草々が生い茂り,その中に,ひっそりと古びた本堂が立っている。境内の木々や草々は,れんぎょう,はぎ,つばき,モミジ,おみなえしなどで,四季折々に美しい花をさかせる。「花の寺」 とも呼ばれているが,残念ながら,僅かに 「萩の花」 が咲いているだけだった。
 この寺の縁起をみると,809 (大同4) 年「平城 (へいぜい) 天皇」 が譲位したあと,この地に萱葺きの御殿を建て,移り住んだのが始めという。
 平城上皇は,この地で,藤原薬子やその兄,仲成らと政権奪還を画策したが,結局は,挙兵したものの,失敗に終わっている。( 「薬子の変」 )
 その後,息子の阿保親王,さらに親王の子の在原業平朝臣に伝えられた。歌人として有名な在原業平が,自分で作った聖観音像を安置し,祖父の菩提を弔い,また 「衆生済度の為に 『法輪を転じて退かず』 と発願し,不退転法輪寺と号し」 たという。
 境内には,多宝塔があり,その前に,

  ちはやふる 神代も聞かす 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは

 という 『百人一首』 に収められた和歌の碑があった。

 不退寺を出て,寺を迂回するように北に向かう。さらに西に折れるとJR奈良線の線路の上にかけられた古く細い橋に出る。渡ると足元がギシギシと揺れる。吊り橋でもないのに,錆びた剥き出しの鉄骨といい,崩れないものかと不安になってしまう。と,折から,真下を電車が走り抜けて行った。
 逃げるように橋を渡りきり,再び,国道24号線に出ると,押しボタン式の信号のスイッチを押し,東側に渡る。

 ここから先には,佐紀古墳群があるのだ。
 まず最初に見えるのが,宇和奈辺古墳。全長270m という巨大な前方後円墳。一枚の写真には当然収まりきらないので,強引に2枚を重ねてみたが,どうだろう。前方部の東側から撮ったものだが,僅かに奥の後円部の感じが出ているのではないか,と思うのは,実際に見た者だけだろう。

 

うわなべ古墳宇和奈辺(うわなべ)古墳

 

 この古墳のすぐ西側には,「小奈辺 (こなべ) 古墳」 (全長 204 m),少し北にずれて 「伝・磐之媛陵 (ヒシアゲ古墳)」 (219 m),少し間があって,「伝・平城天皇陵 (市庭古墳)」 (径 100 m )と並ぶ。さらに,数百メートル西には,「成務天皇陵」,「日葉酢媛陵」,「称徳天皇陵」,「神功皇后陵」などの古墳が並ぶ。中でも,「神功皇后陵」と伝えられている古墳は,全長275m を誇り,この地域では最大の大きさだ。どれも,4世紀後半から5世紀にかけて造られたものという。

 上奈辺古墳から小奈辺古墳の周濠に沿って歩いて,仁徳天皇の皇后であった磐之媛の陵であると伝えられている古墳に出る。いつも思うことだが,天皇陵などは,宮内庁の管轄となり,陵は,鳥居,玉垣で守られている。そのせいだけではないが,古墳の様子を見ることも十分にできない。
 もっとも,その巨大さは,実った稲穂の輝く田んぼ越しに振り返ると,古墳であるというより,丘陵のようにしか見えない。

 

磐之媛陵磐之媛陵遠景

 

 磐之媛陵のすぐ南には,大きな 「水上池」 がある。灌漑用のため池だが,南側の土手などは奈良時代にすでに造られていたという。『日本書紀』 に書かれている 「狭城(さき)池」 ではないかという説もあるらしい。
 この池の中央を東西に一本の細道が通っている。その南側の池は,釣り堀になっているが,今日は,誰もいない。すっかり荒れ果てている所をみると今は利用されていないのだろうか。

 池の南端の道に出ると,東側の民家の屋根越しに小山が見える。実は,「平城天皇陵」 といわれる直径 100 m の巨大な円墳の 「市庭古墳」 だ。
 調査によると,もともとは 「前方後円墳」 だったという。「平城京」 の建設のために,周濠が埋められ前方部が削り取られたという。そういう,平城京建設のために,破壊された古墳は,他にもいくつもあるという。
 「平城天皇」 といえば,「平安遷都」 を行った桓武天皇の第一皇子であり,後,即位した人。5世紀に造られ,「平城京」 建設の際に削られた 「市庭古墳」 が 「平城天皇陵」 である筈はないのだが・・・
 いずれにせよ,この辺りが,「平城京」 北端になるわけだ。

 

市庭古墳市庭古墳

 

 水上池の南側の道を東に戻り,小奈辺古墳のあたりで,南の町並みに入って行く。

 バス通りに出てしばらく歩くと道の西側に崩れそうな土塀の門があった。海龍王寺である。
 門をくぐると,表の土塀同様に崩れかけたような塀が続く。その前に,盛りを過ぎた彼岸花が咲いていた。よく見るとアゲハ蝶が蜜を吸っている。近付いてカメラを向けるとその気配を察したのか,アゲハは飛び去った。

 

海龍王寺 海龍王寺山門   土塀

 

 この海龍王寺は,731 (天平3) 年,聖武天皇の皇后・光明皇后が発願し,藤原不比等の住居 (光明皇后宮) の東北の角に建てられた寺であるという。そのために 「隅寺」 とも呼ばれる。
 遣唐使として唐に渡り帰朝した僧玄ムがこの寺に入り,「海龍王寺」 と改めたという。

 境内には,北側に正面5間の金堂があり,西側には,正面3間の西金堂がある。創建当時は,向き合うように,東金堂や,金堂の北側には,講堂などもある興福寺に似た伽藍配置だったという。
 この西金堂の内部には,奈良時代に造られた,国宝の 「五重小塔」 が安置されている。

 

西金堂   五重小塔

     (左)西金堂       (右)五重小塔(西金堂内)

 

 海龍王寺を出て,次いで,元は光明皇后の宮,というより,藤原不比等の屋敷であったという,法華寺に向かう。
 現在の本堂は,豊臣秀頼の母,淀君の発願で再建された建物で,尼寺らしく,優雅でやわらかな印象が残る。内部に安置された本尊・十一面観音立像は,高さ1 m ほどの小さな木像であるが,光明皇后の姿をうつしたものと言われている。

 

法華寺本堂 法華寺

 

 もとは,総国分尼寺とはいうものの現在の境内は狭い。創建当時には,藤原不比等の邸宅であった広大な敷地に,金堂,講堂,東西両塔などを擁する大伽藍であったという。が,今は面影もない。
 本堂の東北の方向に 「からふろ」 と呼ばれる建物がある。現存する建物は,室町時代に改築されたものだが,光明皇后が薬草を煎じ,その蒸気で難病者を救ったといわれる 「浴室」 である。
 当時,天然痘が流行していた・・・時の栄華を誇っていた,不比等の4人の息子たちも,次々にその疫病で亡くなった。そういう時代に,国分寺,国分尼寺が造られ,「からふろ」が造られた・・・

 そんな歴史のひとこまを考えながら,法華寺をあとにして,さらに南へ下がる。現在の奈良市街に戻る。交通量の多い国道24号線を渡り,さらに近鉄奈良線の踏み切りを越えると,右手に,奈良市役所がある。この市役所内には,平城京の復元模型が展示されている。かなり大きな模型 (東西 8.3 m,南北 6.4 m) であり,もし観光の機会があればご覧になるといい。

 市役所の前を東西に走る幹線道路を西に向かう。もう一度,地図を見て欲しい。市役所を曲がり,西に向かい,高架になっている国道24号線と交わる手前に,小さく 「369」 という数字が見える。その上には,数字と重なるように大きな建物の印がある。これから向かうのが,そこだ。(地図参照

 写真を見ていただくとわかるだろう。今は,人のいないひっそりとした大きな建物は,倒産した 「百貨店」。その搬入口のすぐ脇に並ぶ植木の間に,右の写真のような 「碑」 が立てられている。それは,平城京のこの場所に,かって 「長屋王」 の邸宅があったことを伝えている。
 周囲の市街地の喧騒のなかで,かって賑わったであろう巨大な鉄筋コンクリートの建物が廃墟のように建っていることで,なにかしら,「いにしえの栄華」 を誇ったものの 「あわれ」 を感じさせる。

 

長屋王邸宅跡 長屋王邸宅跡   長屋王邸宅跡

 

 1988年,平城京の左京三条ニ坊一・ニ・七・八坪にあたる,この百貨店建設の際,この土地から大量の木簡が出土した。その木簡の記述や発掘調査の結果,ここが,長屋王の邸宅跡であることが判明した。1200年も昔の個人の邸宅が同定されたのだ。
 大規模な正殿風の建物跡,170を越す掘立柱建物,40もの井戸,4万点にも及ぶ木簡。その中には,各地からの貢物の記録もあり,かなり裕福な暮らしをしていたと思われる。皇位継承権をもつ政界の中心人物のひとりでもあったわけだから当然といえるだろう。
 また,邸宅跡の北側,平城宮東院の南側の地域では,藤原四兄弟のひとり,藤原麻呂の邸宅を示す木簡も発見されたという。

 散歩を続けよう。24号線の下をくぐり,北に向かうと,平城京跡に再現された 「朱雀門」 が見えてくる。この門は,天皇の住む内裏や政治を行う大極殿などのある地域,「平城宮」 への表門である。もちろん,写真の門は,当時のものではない。1998年に復元完成したものだ。
 当時の門がこのような形であったかどうかはわからない。復元に際しては,基本的には,現存する最古の門である法隆寺中門をお手本にし,様式は,平城遷都に際して飛鳥から西ノ京に移された薬師寺の東塔を参考にし,その他,海龍王寺の五重小塔や,唐招提寺金堂なども細部の参考にしたという。いわば,現存する天平時代の建物を合成したようなものだ。 

 

朱雀門朱雀門

 

 門の前は,広場のようになっている。が,広場ではない。道だ。当時,この門前から南にまっすぐ,朱雀大路が伸びていた。このメイン・ストリートは,幅 75 m という広い道で,真南にあった平城京の入口ともいうべき「羅城門」まで続いていた。「羅城門」 は,現在の奈良市九条町と大和郡山市観音寺町の間あたりにあった。
 「地図」 を見ていただくと「平城宮跡」を横切る 「近鉄奈良線」 の南,「二条大路南」 と書かれたすぐ上に,四角を書き込んだものが 「朱雀門」。そこから真南に地図の下辺の辺りに 「観音寺町」 と縦書きされ,その 「町」 という字を横切るように東西に伸びる道路があるが,おそらくこの辺りが 「平城京」 の南端にあたる。つまり,幅 7 5m の 「朱雀大路」 は,そこまで伸びていたのだ。
 この門前には,多くの人々が集まったことだろう。参内する貴族たち,貢物を納める地方からの人々,賑やかな通りだったに違いない・・・しかし,今日は,現代の観光客もなく,ひっそりとしている。そうか・・・連休後の火曜日だった。そうでなければ,門の内部にも入れた。うかつにも,休館日に来てしまったのだ。そのことに気付き,思わず苦笑する。それもいいか。都が去って千年。賑やかだったろう往時を偲ぶには,ちょうどいいではないか・・・

 門の裏側に回ると,すぐそばを電車が走る。その線路の向こう,北側に,大極殿跡が残されている。
 草の生い茂った中に,細い踏み跡のような道があり,その道をたどって,大極殿跡に向かうことにした。

 奈良線の踏切を渡ってしばらく北に向かって歩くと,「奈良文化財研究所」 の建物がある。その西側,平城宮跡の中に入っていくと,「平城宮跡資料館」がある。残念ながら,今日は休館。しかたがないので,その前をさらに東へ,一面の草はらの大極殿跡に向かう。
 草はらを歩いていくと周囲から,1,2 m 近く高くなっている部分がある。けっこう広い。そこが第一次大極殿跡である。草の中に,当時の建物跡を示すレリーフが設置されていた (写真左)。

 そこから真南に朱雀門が見え,その門との間の広場の左右に,一段,高くなった細長い建物跡が見える。その広場こそ,朝堂院で,様々な儀式や政務が行われた場所である。右側 (西側) の建物跡では,数人の高校生らしいグループが,なにやら楽しんでいた (写真右)。

 

第1次大極殿跡    第1次大極殿跡

 

 ここで,少し歴史のおさらいをしておこう。
 大化の改新で中大兄皇子と中臣鎌子によって,蘇我政権が倒された。その後,壬申の乱が起こり,天智天皇の子,大友皇子と天智天皇の 「弟」 大海人皇子との間で争いが起き,大海人皇子が勝ち,天武天皇として政権を掌握する。この政変の背景には,天智−天武が 「本当に兄弟であったのか」,「天智天皇はどこでどのように亡くなったのか」 といったような,いろいろな謎が多く興味深いものであるが,今回は触れずにおこう。
 天武の死後,皇后であった持統天皇が即位し,都を 「藤原京」 に定める。

 持統天皇は,自分の血統を守るため,頼みにしていた息子の草壁皇子が即位する前に亡くなってしまったので,自ら即位したと言われる。草壁皇子の子で,まだ8歳だった,孫にあたる軽皇子が即位できる年齢に達するまでの 「つなぎ役」 として天皇となった。
 その軽皇子が15歳になり,文武天皇となる。藤原不比等が,娘・宮子をこの天皇に嫁がせ,しだいに権力を握り始めるのもこの頃だ。

 文武天皇は,25歳で亡くなる。天皇と宮子の間に 「首皇子」 がいたが,まだ,7歳にすぎない。そこで,不比等の,おそらくは思惑もあり,文武の母が即位する (元明天皇)。
 この元明天皇の時,710(和銅3)年,「藤原京」 から 「平城京」 に遷都された。

 この遷都の理由がどのあたりにあるのか,明らかではない。梅原猛氏は,「聖徳太子−山背大兄皇子」 親子の 「怨霊の祟り」 との見方も述べている。「怨霊」といえば,天武−持統への 「恨み」 を持つ人物も少なくない。ありえない話ではあるまい。

 元明天皇は,遷都後,娘に譲位する。元正天皇である。すでに首皇子は15歳になっていたが,さらに 「つなぎ」 の天皇が即位したわけである。そして,翌年,首皇子のもとに母・宮子の異母妹にあたる,藤原不比等の娘・安宿媛 (光明子) が嫁ぐ。藤原一族に囲まれた 「皇太子」 である。

 720(養老4)年,時の右大臣・藤原不比等が亡くなる。この時,大納言として「長屋王」がいた。翌年には,右大臣になる。彼は,先に,お散歩途上に立ち寄った場所に大邸宅を構えていた皇族である。
 長屋王は,天武天皇の皇子のひとり,高市皇子の皇子である。天武の孫である。ただし,首皇子が 「持統系」 であるのに対し,かって,持統天皇に殺された大津皇子と同じく,「大田皇女」 の系統である。政治手腕もなかなかのものであったらしい。
 長屋王が右大臣になった時,不比等の4人の息子の中,長男・武智麻呂は,従三位 「中納言」 となり,次男・房前も従三位と出世して,中央政権深く入りこむ。

 こうした状況の中で,724(神亀元)年,皇太子は即位する。聖武天皇である。即位の年,長屋王は正ニ位左大臣となり,藤原兄弟も正三位となる・・・この両者の間には,大納言の多治比池守,巨勢邑治,大伴旅人ら,古くからの家柄の貴族がいたが,中納言であった巨勢邑治は,まもなく亡くなってしまい,大納言は高齢であった。

 聖武天皇は,即位にあたって,母の宮子夫人に 「大夫人」 という 「尊号」 を与えようとした。これに対し,「先例がなく,「皇太夫人」 というべきだ」と天皇に異を唱え,「勅令」 を取り下げさせたのが,長屋王である。
 このように発言力も大きく,反・藤原勢力にとってのよりどころともいうべき長屋王は,藤原勢力から見れば,目障りきわまりない存在だったといえるだろう。

 即位から4年目に,光明子が子どもを産む。「基王」 と呼ばれている。生後まもなく,「皇太子」 とされた。これも前例のないことであった。聖武天皇自身もそうであるが,この「皇太子」 も,母親が皇族ではなく,したがって 「皇后」 ではなかった。「皇后」 でない 「夫人」 の子どもが「皇太子」なったことは,聖武天皇が初めてであり,さらに今回は,生後間もない赤子である。こんな異例なことはない。その異例なことをやってのけて,「皇太子」 を擁したことで,皇位の決定権を藤原氏が握ったと言っていいだろう。
 しかし,翌年,「皇太子」 が亡くなってしまう。

 事件はその翌年,729(神亀6)年2月に起きた。
 「長屋王が謀反を企んでいる」 という密告があった。その夜には,長屋王邸は取り囲まれ,翌々日には,長屋王は自刃させられている。夫人の吉備内親王や子どもらも後を追って自害した・・・。
 後にこの密告が 「デマ」 だったとわかるが,すでにあとの祭り。ちなみに,密告者の中には,中臣宮処連東人という無位の人物がいた・・・。中臣といえば・・・

 長屋王がいなくなり,8月に天平と改元されると,さっそく,光明子が 「皇后」 となった。皇族でない初の 「皇后」 の誕生である。もはや,反対するものはいない。
 藤原勢力のこの世の春が訪れる筈だったが,異常な事件があいつぐ。旱魃が起こる。天然痘が流行する。そして,この天然痘の猛威の中,天平9年には,藤原の四兄弟が次々に亡くなってしまうのだ。「長屋王の祟り」・・・そんな噂も流れていたらしい。
 そんなおり,亡くなった四兄弟にかわり,光明皇后の異父兄にあたる 「橘諸兄」 が右大臣になり,そして,なんと 「阿部内親王」 が女性として初の 「皇太子」 となる。藤原氏の善後策であった。
 筑紫にいた四兄弟の三男,藤原宇合の子,藤原広嗣が,筑紫で反乱を起こした。中央では,四兄弟の長男・武智麻呂の長男,藤原豊成が出世していた。遣唐使帰りの吉備真備や僧玄ムが,取り立てられていた。そういった中で,「吉備真備や僧玄ムが国を傾けようとしている」 と反乱を起こした。その勢いは激しく,平城京へ攻めあがってこないともしれない・・・
 一族の中からの 「反乱」 という衝撃。

 聖武天皇が平城京を離れたのは,そんな情勢の中だった。伊賀,伊勢,さらには美濃にまで 「逃げる」。広嗣の乱が平定されたと美濃で聞き,畿内に戻ってはくるが,天皇は,恭仁京への遷都を決定する。天平12年のことだ。同時に,「国分寺」 「国分尼寺」 の創建を命じる。
 翌741(天平13)年には,まだ,平城京に残っていた五位以上の者に,新たな,しかし,まだ十分な設備もない恭仁京へ移り住むことを命じている。こうして,約30年間,都であった「平城京」は,棄てられることになった。

 しかし,落ち着くことができなかった。天平14年には,甲賀郡・紫香楽宮を造り,そこで,「大仏造願の詔」 を出す。しかも,寺地もそこに決めるのである。なぜ,そんな山の中に・・・?
 たびかさなる天変地異の記述が,『続日本紀』 に見えるのもこの頃である。聖武天皇は,心乱れ,恭仁京と難波京のどちらがいいかと皆の者に聞き,せっかく移ってきたばかりなのだから恭仁京が良い,という声が多い中,突然,難波宮への遷都を決める。が,異変の記録が続く・・・

 天平17年,結局,平城京に戻ってきた。大極殿は,少し東に移された。それが,第2次大極殿跡である。(写真左)

 

第2次大極殿跡

 

 その後,長岡京に遷都されるまで,ここに大極殿があった。写真の左手,彼方に白い建物が写っているが,例の 「長屋王邸宅跡」 に建つ 「百貨店のビル」 である。戻って来た天皇は,いったいどんなことを考えながら,ここに立ったのだろうか?
 そんなことを思い,ふと,視線を東に向けると,奈良市街のビルのはずれに,東大寺大仏殿の大きな屋根が見えた。

 

奈良市内遠望

 

 すでに午後3時半を回ってしまった。最後に,もう一ヶ所だけ立ち寄りたい所がある。
 足早に平城京を抜け,近鉄西大寺駅の方向に向かう。その途中,細い川が流れている。秋篠川だ。その流れに沿って行く。交通量も多い道だ。しかし,時間があまりないので,町並みの中の道には入らず歩き続ける。少し曇ってきたこともあるが,しだいに日の光も弱まってきているようだ。

 奈良県営競輪場の前を過ぎ,秋篠の町並みに入る。とたんに,静かになる。秋篠寺がすぐそこにある。

 秋篠寺は,776(宝亀2)年,光仁天皇の勅願により開かれたと寺伝には書かれている。当初は,金堂,講堂,東西両塔を持つ大寺院であったらしいが,現在は,古木に囲まれた境内に本堂と礎石が点在するだけである。
 本尊は,鎌倉時代の作らしい,薬師如来。その左右には,日光・月光の両菩薩。西ノ京の薬師寺の像とは違い,やや厳しい表情でもある。
 この寺を有名にしているのは,ご本尊より,「天平の美女 」とも呼ばれる,伎芸天立像だろう。伎芸天というのは,「大自在天の髪際から化生せられた天女で,衆生の吉祥と芸能を主宰し諸技諸芸の祈願を納受したまうと説かれている」 ( 『秋篠寺小誌・尊像略記』 )。しばらく,本堂の中で諸仏と対面していると,僅かな明かりの中で静かな心持ちになってくる。

 拝観時間終了の間際だったこともあり,境内には,私ひとりだけだった。大好きな本堂の佇まいを写真に収めようとカメラを構えながら,アングルを探していると,若い女性がひとりきりで訪れ,私には目もくれず,本堂の中に入っていった。するとそれまで雲間に隠れていた夕日が現れ,一瞬,本堂の白い壁を赤く染める。思わず,シャッターを切った。

 

秋篠寺

 


 ♪ 平城京については,奈良文化財研究所のホーム・ページも参考になります。「案内」から入るのが,楽しめるかと思います。 
 


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