たまにはお散歩


 

第3回 飛鳥散策 (2001. 5. 4.)

 

 ゴールデン・ウィーク後半の4連休。家の中でごろごろしてはいられない。昨日までの曇り空が,きれいに晴れているのだ。出かけよう。

 家族にお伺いをたてると,いっしょに行くという。それもいいではないか。ただ,行き先だけは,私のわがままをきいてもらう。そう,「飛鳥」 が目的地だ。あまり歴史の得意でない家族だが,「こんないい天気なんだから,飛鳥を自転車で回ろう」 というと,子どもたちは賛成してくれる。

 いつもなら電車で行くところだが,今日は妻の運転する車で奈良に入ることにした。我が家からは,少し北上し,富田林市から聖徳太子ゆかりの地である南河内郡太子町に抜け,万葉の時代から有名な二上山と大和葛城山の間にある 「竹内峠」 を越える道,古くから開かれた 「竹内街道」 を行く。この道は,「難波・堺」 と 「大和」 を結ぶ日本最古の官道だとも言われている。堺の港に入った大陸の文化がこの道を通り,大和にもたらされたのだ。
 峠の坂道を抜けると,奈良県當麻町。当麻寺で有名な町だが,今日は先を急ぐ。

 橿原市に入るとビルの切れ目に,なだらかな 「畝傍山」 が見え始める。大和三山のひとつ。周辺には,蘇我,忌部,久米などの古墳時代の有力な氏族の遺跡が残されている。いや,それより,神武天皇陵と 「橿原神宮」 の存在で有名だという方がいいかもしれない。
 橿原神宮の駐車場にやっと隙間を見つけ,車を降りる。いよいよ 「お散歩」 の開始だ。「近鉄・橿原神宮前駅」 の近くにあるレンタ・サイクルで自転車を借りる。店のおじさんは,「今日は,いい天気だから,気持ちいいよ。5時間もあれば,十分回れるよ」 とイラストの地図を渡してくれ,「いってらっしゃい」 と送りだされた。(地図参照

 さすがにGWだけあって,我々同様,サイクリングで回る家族連れも多い。すでに11時を過ぎているので,やや出遅れ気味だ。駅前を東に向かうとすぐに右手に土手が見える。そこで自転車を止める人も多いが,実際に土手を上がって行く人は少ない。そこは剣池と呼ばれているが,実は,「孝元天皇陵」 と言われている 「剣池嶋上陵」 をめぐる池である。実際のところ,周濠というわけではなく,陵の東南部分は,周囲の土地とつながっている。

 人家の間の細い道を抜けると,広い道路に出る。そこを東へ向かう。まずは,飛鳥の中心とも言える 「甘樫丘 (あまかしのおか)」 を目指す。

 

甘樫丘・遠景(伝板蓋宮跡より) 甘樫丘

 

 甘樫丘は,大和三山の南,飛鳥のほぼ中心にある丘陵地帯で,豊浦という地域に位置する。豊浦といえば,推古天皇が造営した「豊浦宮」の地で,甘樫丘の北西にある豊浦寺跡の付近と考えられている。

 飛鳥川の流れに沿って少し迂回すると,甘樫丘への登り口があった。自転車を止め,道を進む。芝生の広場では,数組の家族連れがお昼のお弁当を開き,歩き始めたばかりの赤ちゃんの歩む様をビデオに撮る家族もいる。その横を私たちは,足早に頂上を目指す。

 頂上近くには,「万葉展望台」 と名づけられた展望台がある。標高 148 m の丘は,雑木林に覆われているが,その展望台だけは,北,西の方角が開いている。眼下には,飛鳥の地,北には藤原宮祉を経て耳成山が望める。西は,遠く生駒山,二上山,大和葛城の山並が並び,手を伸ばせば届きそうな畝傍山が見える。足下には,田畑が広がる。

 

畝傍山  耳成山

 (左)畝傍山方面 (遠くに見えるのは二上山)   (右)耳成山方面 (画面中央には昔,藤原京があった)

 

 万葉の古人たちも,この丘に登り,様々な思いで飛鳥の地をながめたのだろう。

  神岳 (かむをか) に登りて 山部宿禰赤人の作る歌一首井に短歌
三諸の 神名備山(かむなびやま)に 五百枝(いほえ)さし 繁 (しじ) に生 (お) ひたる つがの木の いや継ぎ継ぎに 玉かづら 絶ゆることなく ありつつも 止まず通はむ 明日香の 旧 (ふる) き京師 (みやこ) は 山高み 河雄大 (かわとほしろ) し 春の日は 山し見がほし 秋の夜は 河し静 (さや) けし 朝雲に 鶴 (たづ) は乱れ 夕霧に 河蝦 (かわづ) はさわく 見るごとに 哭 (ね) のみし泣かゆ 古 (いにしへ) 思へば

   返歌
明日香河 河淀さらず 立つ霧の 思い過ぐべき 故意にあらなくに

    ( 巻三 324・325 )

 そんな昔の人の思いに夢を馳せながら,風景を眺めるのも楽しい。あの辺りには,「藤原京」 があったのだ・・・今は忍ぶよすがもないが・・・いや,きらびやかな大極殿の柱の朱の色も鮮やかに甦る。田畑は茂り,遠く農作業をする人たちの歌う声も風にのって聞こえてくる・・・
 都のあのあたりの屋根は,あのひとの住む家だろうか・・・などと,考えた人もいたに違いない。

 甘樫丘を下っていると道の脇に花が咲いていた。小さな花に心がなごむのは,今も昔も変わるまい。そうした花や木々を見ながら,登り道とは違う道を下りてきた。すると,そこには,すでにお顔が風化してしまった六地蔵がひっそりと,しかしおそらくは地元の方なのだろう,野花が活けられていた。

 

道端の花  六地蔵

 

 甘樫丘で,いにしえに思いをはせ,明日香の里の空気を身体に取り込んだところで,家族の待ちかねていた昼食の時間にした。お弁当でも持ってくればよかったのだが,今日は,店を探して入る。
 このあたりには,あまり店もなく,見つけて入った喫茶店も満員だった。やっと空いていたテーブルにつく。高菜とじゃこのピラフは,空きっ腹には,美味かった。

 サイクリングを再開したのは,もう午後2時に近かった。まだまだ,回りたい場所はたくさんある。が,今日はそのすべてを回る時間がなさそうだ。そこで,この後は 「飛鳥の石」 にこだわることにした。

 飛鳥には,用途のわからない謎の石造物が多い。それを紹介することにしよう。とはいえ,飛鳥といえば 「石舞台古墳」 も忘れることはできない。まず,頭の中で,大雑把なコースを考え,地図で確かめた。

 明日香村役場の前の道を北に折れると,すぐに右手に広場が田畑の中に広がる。そこは,「伝飛鳥板蓋宮跡」。有名な 「大化の改新」 の 「舞台」 である。上に 「甘樫丘」 の遠景をお見せしたが,その甘樫丘の近くまで,蘇我入鹿の首が飛んだといい,はるか彼方に「入鹿の首塚」と伝えられる史跡がある。

 その宮跡を過ぎ,東側の丘の斜面を登ると竹やぶの中に開いた場所に 「酒船石」 がある。東西約 5.5 m,南北約 2.3 m,厚さ約 1 m の巨石の上面に 「丸」 や 「楕円」 の窪みが彫られ,それらを結ぶように,またそれらの窪みから出るように溝が彫りこまれている。どのような用途を持つのか,それがなぜここに置かれているのか,まだわからない謎の石である。
 古来,この石の上で,酒を造ったとか,燈油の製造に関わるものだとか,砂金や辰砂を選び出す道具であるなど,様々な説が発表されている。そういった,謎を考えるのもまた楽しい。

 

酒船石 酒船石

 

 近年,この酒船石のある丘の北西の谷あいに整然と並んだ石垣跡や,円形の石造物など様々な遺構が発見されている。この 「酒船石遺跡」 全体は,どうやら,『日本書紀』 に見える,「両槻宮」 に関連する遺構ではいかと推測されており,今後の研究の成果を待ちたいと思う。  

 酒船石をあとにして,再び南へ。ひときわ多勢の観光客に囲まれているのが,蘇我馬子の墓ではないかとも言われる,「石舞台古墳」 の周辺だ。それまでも,連休中だからどこも人の多いのは同じだが,それでも,どこかひっそりとした空気が流れていた。が,ここはまた別だ。人,自転車,車。整理しようとする係員のハンドマイクの大きな声。それさえもはっきりとは聞こえないような喧騒。

 しかし,石舞台に近づくと,人の多さにも関わらず,巨石の圧倒的な大きさが人々の気配を上回る。どの人も,石の巨大さを語り,心なしか声も小さくなる。巨石の中のひとつは,8トン近い重さがあるという。そういう数字より,現実に目の当たりにする石の大きさがすべてを物語る。
 しばらく,掌を石に押し当ててみた。石の冷たい感触が伝わる。そして,掌からもっと別の「なにか」が伝わってくるような気がする。だが,それを受け止めるだけの力が私には備わっていないようだ。

 

(右)石舞台古墳  (下左)石室に続く羨道部  (下右)石室内部 石舞台古墳

羨道  内部

 

 玄室に入ると,暑さも和らぐ。娘は,「夏は涼しいだろうなあ」,と言う。当たり前だが,その当たり前の感想が,深く響く。

 石舞台から,西へ自転車を走らせると,北側に 「川原寺跡」 があり,その南側の斜面を少し登ると,「橘寺」 がある。この寺の創建については,はっきりわからないことも多いらしい。ここは寺に入る時にもらった,印刷物から引用してみよう。

 当寺は,聖徳太子様のお生まれになった所で,当時ここには,橘の宮という欽明天皇の別宮があり,その第四皇子の橘豊日命 (たちばなのとよひのみこと) (後の三一代用命天皇) と穴穂部間人皇女 (あなほべのはしひとのひめみこ) を父母とされて,西暦五七二年この地にお生まれになり,幼名を厩戸皇子 (うまやどのみこ),豊聡耳皇子 (とよとみみのみこ) などと申し上げた。 

 『日本書紀』 には,天武天皇9年の条に,橘寺の尼房が焼失したという記述があり,どうやらもともとは「尼寺」あったらしい。

 しかし,そういう創建の物語のために立ち寄ったのではない。私のお目当ては,境内の西側に残されている 「二面石」 と再会するためなのだ。

 

二面石 二面石

 

 この石は,両面に二つの顔が彫りだされた石造物で,寺によると善悪両面をあらわしている,という。写真の顔は,向かって右側の,言うところの 「善」 の顔である。7世紀頃に作られたものだといい,さすがに風化しているが,そのためか,いっそう素朴な優しい顔といえばその通りではある。もう一方のやや面長に彫りだされた顔は,ちょうど日の光を受けており,さらに風化も進んでいるため,表情がわかりにくい。
 この石がどういう目的で彫られたものか,何もわかっていない。お地蔵さんや道祖神のような性格なのだろうか,それならば,なぜ寺の境内にあるのか? それとも,庭園を飾る石像として造られたのか。それとも,何かしら宗教と関係するのだろうか。しかし,とても仏教の遺物とも思えない表情ではないか。

 そんな疑問をもったままに,橘寺をあとにして,畑の間の細道を西にしばらく走ると,突然,人だかりがあった。そこにも,奇妙な石造物があるのだ。

 

亀石 亀石

 

 菜の花が咲き乱れる畑を前に,その石はあった。奇妙な石だ。「亀石」 と呼ばれているが,確かに,亀と言われればそうかもしれない。平安時代には,すでにこの場所にあったことが知られているが,実際のところ,いったい何なのだろう。奥行 4.5 m,幅 3 m ほどの巨石だ。愛嬌のある表情だが,本当に亀だろうか?
 現在は,南西を向いているが,「この亀が西を向くと,飛鳥は泥の海に沈んでしまう」 という言い伝えがあるという。何もわからない以上,このまま,南西の方角を向き,微笑んでいてもらおう。

 亀石の前の道を少し行くと,まず左手の林の中に,大きな板状の石がある。「鬼ノ俎(まないた)」 と呼ばれている。道を少し先に行くと今度は右手の畑に落とされたような箱状の石造物がある。こちらは 「鬼ノ雪隠(せっちん)」 と呼ばれている。

 

鬼ノ俎  鬼ノ雪隠

(左)鬼ノ俎  (右)鬼ノ雪隠  

 

 写真では,わかりにくいかもしれないが,これは,おそらく対のものではないか・・・おそらく想像される通り,鬼ノ雪隠は,横口式の石槨の底の部分であり,鬼ノ俎の方は,その蓋なのだろう。そうは言っても,これだけの大きさの物である,どうしてここに棄てられているのか。

 さて,時間が押してきたので,先を急ぐ。今日の最後の訪問地を目指す。欽明天皇陵とそのすぐ西側にある吉備姫王陵である。

 欽明天皇陵は,全長 138 m の前方後円墳である。が,今日の私の目的は,西側にある,吉備姫王の陵墓の方だ。吉備姫王は,皇極 (斉明) 天皇の母にあたる。その人の陵墓とされている。
 わざわざここまで足を運んだのは,他でもない。この陵墓域に置かれている4体の石像のためだ。「猿石」 と呼ばれている。

 

猿石  猿石  猿石  猿石

 

 なんとも奇妙な石像で,どれも異国情緒を漂わせている。渡来人の石工が,自分たちの思いを込めたのだろうか。それとも,異国の石像を造れと命じられたものか。いずれにせよ,遠い大陸の香りがする。

 今日見て歩いた石像物の他に,もう少し先に 「益田の岩船」 と呼ばれるものがある。できれば足を伸ばしたいところだが,帰る時間が近づいてきたので,またの機会にしようと思う。
 その 「益田の岩船」 もそうだが,これらの不思議な石像物がどういった目的で造られたのかは,いまだわかっていない。どれもこの地方の産出の花崗岩を加工した物であり,ほぼ同じ時期に造られているという。同じ目的をもったものだろうか。
 亀石にしても,しかし,とうてい完成品とは思えない。計画されて事業が途中で挫折したか,あるいは計画そのものが破棄されたのかもしれない。

 面白い説としては,松本清張氏が 『火の路』 で提示されている,西域の古代ペルシャにあった 「ゾロアスター教」 との関連性である。今,ここで,この長大な作品を紹介する余裕はないが,簡単に紹介すれば,

 斉明紀によれば,この天皇は土木工事がお好きであった。・・・
 一、是歳 (斉名二年) に,前年に造営しかけた小墾田宮 (おはりだのみや) を放棄して,後飛鳥岡本宮を造って,ここに移り住んだ。
 二、田身嶺 (たむのみね) の山上に垣をめぐらした。また,嶺の上の,ふたつの槻の樹のほとりに,観 (たかどの) を建てた。名づけて両槻宮 (ふたつきのみや),または天宮といった。
 三、香久山の西から石上山に至る渠 (みぞ=小運河) を掘らせ,舟二百隻に石上山の石を積んで 「流の順に控引き」 宮の東の山に石をかさねて垣とした。
 右の二と三の土木工事について世間では 「狂心の渠をつくるのに人夫三万人を費やした。垣を造るのに人夫七万人を費やした。宮の用材は腐って山頂を埋めた」 と,その濫費を呪った。また,「石の山丘を作るにしても,作るはしから自然とこわれてゆくにちがいない」 と嘲笑した。

    松本清張 『火の路』 (文春文庫)

 この斉明天皇が,多武峰のような山の上にわざわざ造営したという「両槻宮」の付帯施設として,多くの石像物が造られたのではないか。そして,この 「斉明天皇というのは,かなり異宗教的な雰囲気のある女帝だったらしい。」 と述べ,その異宗教として古代ペルシャのゾロアスター教 (拝火教) を想定している。

 確かに,異宗教的な表情を持つ石像物が多いのは,事実であるし,話としては興味深い部分もあり,もし興味があれば読んでみるのもいいかもしれない。

 「両槻宮」 が完成したのか,やはり山の上に造営するという困難のため,途中で中止されたものか。『書紀』 には,斉明天皇がその宮に赴いたという記述がない。実際には,どうだろう。こればかりは,わからない。が,完成しなかった宮に置かれるべき石像が,結局,放置されたままになっているのかもしれない。

 先にも紹介したが,酒舟石遺跡の調査が進められているところである。調査が進んだとしてもどれだけ解明されるか。まだまだ,謎は謎のまま残されるだろう。

 しだいに日が傾いてきた。借りた自転車を返さなくてはならない時間が近づいてきた。飛鳥は広く,今回は,ほんの一部を 「お散歩」 しただけだ。歴史に関わる様々な遺跡,古墳,廃寺,宮跡が残っている。高松塚古墳,キトラ古墳など最近も話題になった古墳もある。こうした場所にも,また,足を運びたいと思う。

 


 ♪ 飛鳥については,明日香村のホーム・ページも参考になります。 
 


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