たまにはお散歩


 

第2回 興福寺・東大寺 (2001. 2. 9.)

 

 朝から冷たい雨が降っていたが,天気予報では,天候は回復するという。 今日を逃すとしばらく「お散歩」できなくなるので,思い切って出かけることにした。

 電車を乗り継ぎ,近鉄奈良駅に到着した頃には,雨は上がっていた。 この駅は,地下にあり,東出口を出て階段を上がると,噴水の中に立つ行基像が出迎えてくれる。 行基上人は,東大寺の大仏の建立にも関係した。 そういえば,手塚治虫の 『火の鳥』 にも描かれていた筈だ。

 その行基像を見ながら,右手に曲がると,アーケードも新しくなった 「東向通り商店街」。 道の両側には,土産物屋,飲食店などが並ぶ賑やかな通り。 この通りはいつも人であふれているが,さすがに2月,旅行シーズンの最盛期とは比べられない。 それでも,日本語,英語,韓国語など,世界中から人が訪れる古都だけに,いろいろな言葉が耳に入ってくる。

 商店街の途中に写真館があり,その手前に左に折れる小道がある。 私は,この坂の道から興福寺に入るのが好きなのだ。 商店街の喧騒が,その道に入ると途端に静かになる。 あまり人の通らない道だ。
 興福寺を訪れる時,ふつうは,登大路をまっすぐ東に進み,奈良公園を北から入るか,あるいは,東向通り商店街を抜け,三条通りを東に進み,猿沢の池のあたりから階段を上って境内に入る。
 しかし,高校生の頃だったろうか,この写真館横の坂道を知ってからは,必ずこの道を通ることにしている。 (地図参照

 もうひとつ,お決まりのコースがある。 その坂道を登りきり,まっすぐ行けば,国宝に指定されている北円堂が左手にあり,そこからは有名な五重塔や東金堂などの堂宇を見ることができる。
 ところが,まっすぐに行かず右の小径を行くと,今度は少し坂を下ったところに,ひっそりと三重塔が建っている。 私は,この塔が好きだ。
 観光シーズンでも,この塔のあたりは,いつもひっそりとしている。 どっしりとした姿が美しい。 鎌倉初期に再建されたという。

 

興福寺・三重塔(国宝) 三重塔

 

 法相宗総本山・興福寺は,中臣鎌足夫人の鏡女王(かがみのおおきみ)の建てた山階寺を起源とするという。 現在地に建立されたのが,いつなのかは,はっきりしない。 平城遷都以降,和銅年間だと推定されている。 以来,中臣,すなわち藤原氏の氏寺として栄えた。 (興福寺伽藍配置

 以後,興福寺は隆盛を極め,一時期には,比叡山・延暦寺の僧兵と争う一大勢力でもあったという。 それだけに,何度も火災によって堂塔が焼かれている。 源平の対立時代には,反平氏の立場をとり,その結果,平重衝によってすべての堂塔が焼き払われたという。
 しかし,時代とともに,その勢力は衰え,明治の廃仏毀釈の運動の中で,興福寺は廃寺とされ,五重塔が二束三文で売りに出されたという。

 三重塔を過ぎ,石段を降りていくと三条通りへ出る。 左手へ歩いていくと,猿沢池に出る。 池ごしに五重塔を見る構図は,絵葉書や旅行書などのお決まりの写真。 あえて,今日は,私もやってみよう。 結果は,ご覧のとおり。

 

猿沢池から五重塔(国宝)を眺む 猿沢池

 

 この池には,龍が住むという伝説がある。 『今昔物語』 に残されている伝説をもとに芥川龍之介は 『龍』 の一編を書いた。

 ・・・恵印は又元の通り世にも心細さうな顔をして,ぼんやり人の海の向うにある猿沢の池を見下ろしました。 が,池はもう温んだらしい底光りのする水の面に,堤をめぐつた桜や柳を鮮にぢつと映した儘,何時になつても龍など天上させる気色もございません。 殊にそのまはりの何里四方が,隙き間もなく見物の人数で埋まつてでもゐるせゐか,今日は池の広さが日頃より一層狭く見えるやうで,第一ここに龍が居ると云ふそれが抑も途方もない嘘のやうな気が致すのでございます。

    芥川龍之介 『龍』 より

 

 猿沢池の北西の角に,つまり三重塔から降りてきてすぐのところに,釆女社がある。 見落としてしまいそうな小さな祠があるだけだが,天皇の心変わりを嘆いた釆女が,猿沢池に身を投げたという。 彼女の霊が,自分が身を投げた池を見るのは忍びないと,せっかく建てられた祠が,一夜の内にくるりと回り,後ろ向きになってしまったという。 なるほど訪れると,鳥居からは,祠の正面を見ることができない。 不思議な建ちかたをしている。

 猿沢池をぐるりと回り,興福寺境内に向かう。 南大門跡へは,石段をあがらなくてはならない。
 南大門跡に立つと,右手に五重塔,その隣に東金堂,正面に中金堂,左手には南円堂が見える。 ただ,現在,中金堂の前のあたりを発掘調査しており,金網が囲い,その中で土を運ぶベルト・コンベアーが見えたりして,今は,眺めはそれほどよくない。

 五重塔は,高さが約50m あり,古い塔としては,京都・東寺の五重塔の 55 m に次ぐ高さである。 730 年 (天平2年) に光明皇后が建立したというが,以後幾度となく火災にあい,現在の塔は,1426 年 (応永33年) に再建されたもの。

 

五重塔(国宝) 五重塔

 

 五重塔の北隣 ( 写真でいえば左側 ) に,これも国宝の東金堂がある。 内部には,日光,月光の両菩薩( 重文 )を両脇に,薬師如来( 重文 )が鎮座する。 また,十二神将立像( 国宝 ),四天王立像( 国宝 )などが配置されており,かなり大きな建物ではあるが,狭く感じるほど。

 しかし,興福寺まで来たのだから,阿修羅像と再会したい。 早々に東金堂をあとにして,「国宝館」 に向かう。 修学旅行や団体旅行の観光バスが一台も止まっていない。 これは珍しい。 ゆっくり,再会できそうだ。
 国宝館には,様々な宝物が展示されている。 その中に,乾漆八部衆立像がある。

 八部衆とは,「インド古来の鬼霊・悪魔・音楽神・鳥獣神など異教の神を集め,仏法守護や諸仏供養の役目を与え」 ( 興福寺(編) 『興福寺』 ) たもので,「五部浄( ごぶじょう )」 「沙羯羅( さから )」 「鳩槃茶( くばんだ )」 「乾闥婆( けんだつば )」 「迦楼羅( かるら )」 「緊那羅( きんなら )」 「畢婆迦羅 ( ひばから ) 」 そして,「阿修羅( あしゅら )」 であるという。

 阿修羅は,三面六臂の姿で,三面のお顔は,どれも厳しい表情であるが少年のようにも少女のようにも見える。 説明によると,『梵語の 「アスラ ( Asura )」 の音写で 「生命 ( asu ) を与える ( ra ) もの」とされたり,また 「非 ( a ) 天 ( sura )」 とも解釈され,まったく性格の異なる神になる。 西域では大地に恵みを与える太陽神であったが,インドでは熱さを招き大地を干上がらせる太陽神とな』 ったという。 写真を撮れないのが残念。

 興福寺国宝館を出て,東へ向かう。 まもなく道路にぶつかるが,その信号のところに大きな鳥居がある。 春日大社への参道だ。 その鳥居をくぐり右手の林の中を 「鷺池」 の方に向かうのがいつもの私の散歩コースだが,今日は,時間がないのでまたの機会にしよう。 北よりの轍を行く。 国立美術館の裏側を抜ける。 静かな林の中には,所々に鹿が立ち止まっている。 今日は,観光客も少ないので,「鹿せんべい」 をおねだりできないのだろう。 「せんべい売り」 のおばさんが,割れたせんべいのかけらを鹿の群れの方に投げ与えている。
 やがて,登大路に出ると,さすがに賑やかな声が聞こえてくる。 東大寺が近いのだ。

 東大寺の参道には,土産物が並んでいる。 学生のアルバイトだろうか,観光人力車の呼び声も聞こえる。 さすがに大仏の寺だ。 こんな季節でも賑わっている。 もちろん,観光シーズンなら,参道は都会の雑踏なみに混雑するのだから,まだましと言うものだ。 まっすぐ南大門に向かって歩く。 (東大寺伽藍配置

 南大門には,運慶,快慶の作と伝えられる金剛力士像が左右に立っている。 近年,両力士像が解体修理されたが,その際,阿形像の右手に持つ金剛杵から,運慶,快慶の名前が墨書きされているのが発見された。 それにしても,8 m 以上の高さを誇る両像のダイナミックなフォームは,見事だ。 東大寺を守るにふさわしい力強さと風格を漂わせている。

 正面の中門ごしに,大仏殿の偉容が見える。 大仏に対面する前に,周辺の堂宇を回ろうと思う。 右手の鏡池の手前を右の小道に入っていく。 ふと大仏殿の方を見ると,池の面に大仏殿の姿が映っていた。

 

東大寺(鏡池から) 東大寺

 

 林の中のこの道は,三月堂 ( 法華堂 ),二月堂へ続く。 しばらく行くと手向山神社の鳥居が見える。 手向山神社にお参りして左に進むと,正面に三月堂が見えてくる。
 下の写真は,撮る方角が悪いので,このお堂の美しさをまったく捉えていないが,側面から見ると,実に優雅な建物である。 天平時代に建てられた寄棟造の正堂部分と鎌倉時代に建てられた入母屋造の礼堂とがつながったお堂で,その瓦屋根のつくる曲線が美しい。 ( いつか写真を撮りなおそう。 )

 

東大寺三月堂(法華堂) 三月堂

 

 堂内には,国宝の本尊,不空羂索観音が日光,月光の菩薩を従え,その周囲には,四天王が守り,地蔵菩薩,不動明王など合わせて16 体の仏像が安置されている。
 本尊の不空羂索観音と日光,月光の菩薩像は,いつまでも眺めていたい。 特に,おだやかな表情をたたえる日光,月光の菩薩は,こちらの心までがおだやかになるような静けさを持っている。

 

東大寺二月堂 二月堂

 

 毎年旧暦2月に行われる 「修二会(しゅにえ)」,いわゆる 「お水取り」 の舞台となるのが,二月堂である。 石造りの階段をあがり,二月堂の舞台からは,遠く信貴生駒の連山からふもとの大仏殿まで,奈良の都を眺望できる。 今は,所々に近代的なビルの姿も見えるが,その昔は,木々に包まれた東大寺,興福寺から大極殿までもを見下ろせたのだろうか。

 二月堂の向かって左側の階段を下り,その前に続く石畳の道をおりていくと,ちょうど大仏殿の裏手に出てくる。 このあたりを訪れる人は稀だ。 いつもひっそりとしている。 開いた土地の中に鹿が数頭,のんびり草を食べていた。
 この空き地は,講堂の跡だ。 礎石が転々と残っている。 ただそれだけ。 空しい空間に歴史が残っている。

 

東大寺講堂跡 講堂跡

 

 講堂跡を右に見ながら北に道を進むと,白壁の塀に囲まれて正倉院がある。 有名な校倉造の宝物庫だ。
 倉は3つの部分からできている。 南北の校倉造の倉は創建当時のもの。 聖武天皇遺愛の品を納めるために建てられた。 その2つの倉をつなぐように,間に板壁の倉が作られ,現在の形になった。 今は,東大寺を離れ,宮内庁の直轄になっているという。

 

東大寺正倉院 正倉院

 

 大仏殿の裏手には,他に知足院,鑑真和上が建てたという戒壇院などがあるが,訪れる人は少ない。 静かに奈良を歩きたい時は,このあたりを歩くのがいいだろう。

 さて,いよいよご本尊とお会いしよう。 ぐるりと回りこむと,また賑やかさが戻る。 中門から伸びる回廊の左手に入り口がある。

 さすがに巨大な建物だ。 間口7間,奥行5間の木造としては最大の建築物。 中に入ると巨大な盧舎那仏が鎮座する。 像高 14.98 m,顔長 5.33 m,耳長 2.54 m という大きさだ。
 本尊の右側後ろの柱の根元には,ちょうど人がくぐれるほどの穴が開いている。 その穴の大きさが,大仏の鼻の穴の大きさだという。 ここをくぐるとご利益があるともいい,3人の学生たちが次々に身体を横にしてくぐり抜けていた。

 

東大寺大仏殿 大仏殿

 

 それにしても巨大なこの仏は,なぜ作られたのだろう。

 『続日本紀』 には,「夫れ天下の富を有つものは朕なり,天下の勢を有つものも朕なり。 此の富と勢を以て此の尊き像を造る。 事や成り易くして心や致り難し」 とあるという。 しかし,この頃,世情は誠に不安定であった。 疾病,飢饉,天災の多発が同書に記述されている。 しかも藤原広嗣の乱なども起こり,まさに不安定な時代であった。
 都も,紫香楽宮,恭仁京,難波宮などの造営,遷都の詔を発している。 実際,当初大仏は紫香楽宮に造られる筈であった。 しかし,地震,山火事が多発,結局,平城京に戻り,進められることになった。

 権力の誇示にしては,まったく落ち着かない。 まるで,何者かに怯え,逃げ回り,その不安を払うように,巨大な仏にすがろうとしているようにさえ思える。

 大仏は黙して語ってくれはしない。

 


目次へ    inserted by FC2 system