たまにはお散歩


 

第 14 回 河内長野から三日市へ (2010.11. 6.)

  高野街道イメージ図

 私の住む河内長野市は,平安京から高野山に続く 「東高野街道」,大坂からの道である 「中高野街道」,先日のお散歩で少し辿ったが,堺から続く 「西高野街道」 の3つの高野街道が合流する町であり,ひとつに合わさった高野街道が市内を貫いている。(右図参照)

 高野街道は,延暦 15 (796) 年,金剛山系と岩湧山系の間の紀見峠を越える道が開かれたことに始まる。その後,弘仁 7 (816) 年,空海が高野山を開いたため,その参詣の道として重要な街道となった。
 平安京から洞ヶ峠を越え,河内国に入り,生駒山系の西側を南下し,富田林,河内長野を通る 「東高野街道」 がまず栄えた。
 その後,大坂から平野,松原を通り河内長野に至る 「中高野街道」,堺から狭山を抜け河内長野に至る 「西高野街道」 も整備され,江戸時代には,ずいぶん賑わったという。

 下左の写真の正面,河内長野駅前の商店街の入り口付近が,「西高野街道」 と 「東高野街道」 の合流点である。アーケードのある商店街が 「西高野街道」 であり,自動車が向かう方向が 「東高野街道」 だ。商店街の入り口近くには,「高野街道」 の道標が立てられており (下右写真),そこには,「この付近東と西の高野街道合流地点」 と記されている。今回のお散歩は,ここからスタートしよう。(地図参照

 

高野街道合流点  高野街道合流点  高野街道合流点

 

 写真を撮影したあたりから南へ,細い道が続く。それが高野街道だが,今年 (平成 22 年),新たに 「高野街道」 の道標が建てられた。

 

道標  道標

 

 その道標の背後に見える住宅は,吉年邸 (よどしてい) であるが,そこにあるクスノキの大木は,河内長野市の天然記念物に指定されている。高さ約 20 m,幹の周囲約 4.7 m,枝張りは約 30 m にも及ぶ巨木だ。

 

吉年邸のクスノキ  吉年邸のクスノキ

 

 吉年邸の前の道をしばらく行くと左手に 「長野神社」 がある。
 長野神社という名称は,明治以降のことで,それまでは,「木屋堂宮 (こやどのみや)」,あるいは 「牛頭天王宮 (ごずてんのうのみや)」 と呼ばれていたという。この神社の近くに木材が集められ,市が立ったことから 「木屋堂」 と呼ばれるようになったらしい。また,本殿の祭神が,「牛頭天王」,すなわち,スサノオノミコトであることその名で呼ばれていたようだ。
 本殿は,16 世紀頃に建てられたのではないかと考えられており,重要文化財に指定されている。
 建物は,一間社流造り (いちげんしゃながれづくり) で,これは,「正面の柱間が1間で、側面からみた屋根の形が、後ろが短く前が長くなっている構造の神社建築。」 (広報「かわちながの」平成 18 年 12 月号) だという。
 また,境内には,大阪府指定文化財になっているカヤノキが立っている。高さが 17 m,幹廻りが 4 m あるという。

 

長野神社本殿  かやのき

長野神社本殿     かやのき

 

 長野神社から吉年邸の方に少し戻り,坂を下る道が高野街道である。静かな道をしばらく歩き,右に曲がると古い建物が道の両側に並ぶ。
 河内長野の地酒 「天野酒」 を醸造する西條合資会社の建物だ。江戸末期の建物で,国の登録文化財に指定されている。

 

西條合資会社旧店舗  西條合資会社旧店舗

 

 平安中期以降,酒の醸造は,大寺院に受け継がれてきたという。天野酒も河内長野にある天野山金剛寺の僧坊酒として作られてきたものであり,品質が良いことで有名だったらしい。しかし,明暦年間に製造が中止されてしまった。それを昭和 46 年に復活させたのが,西條合資会社である。
 会社自体は,享保 3 (1718) 年にさかのぼる酒造業者で,「三木正宗」 や 「波之鶴」 という酒を作っていたという。(西條合資会社HP
 下の写真は,旧店舗の向かいの建物で,こちらは,現在も使われている。

 

西條合資会社  西條合資会社

 

 建物の間の道を抜け,ほどなく左折すると石川にかかる橋があり,その先の坂を登ると国道 371 号に出る。最近の地図では,この道路を 「高野街道」 としていることが多い。が,今,歩いてきたように歴史的には,微妙に異なる場所がある。
 国道を渡るとまた,坂がある。そこを登って行く道が古来の 「高野街道」 である。

 

街道  街道

 

 車一台通れるほどの狭い道で,右側は,竹やぶと雑木林が続き,左側に,民家や畑がある。曇り空のせいでもあるが,建物と樹木の影に覆われてやや暗い。人通りもほとんどない静かな道だ。

 そんな道をいったいどんな人々が往来してきたのだろうかと昔の様子を考えながら歩いていると,右手に古めかしい灯篭と鳥居が現れる。烏帽子形神社だ。

 

烏帽子形神社  烏帽子形神社 

 

 けっこう急な長い石段を登る。運動不足の身体には,こたえる石段だ。息が切れる。

 

烏帽子形神社本殿  烏帽子形神社本殿 

 

 登りきったところに本殿がある。創建がいつの頃かはわからないが,調査によると,現在の本殿は,棟札から,文明 12 (1480) 年に石川八郎という人が建立したものだという。
 正面桁行3間,梁行2間の入母屋作りの社殿で,国の重要文化財に指定されている。

 烏帽子形という名は,この背後の山が,烏帽子に似ていることに由来する。そして,その烏帽子形山には,古墳時代の円墳と楠木正成が作ったのではないかともいわれる 「烏帽子形城跡」 があり,現在は,プールやフィールド・アスレチックなどもある公園として整備されている。
 せっかくここまで来たので,高野街道からは,少し外れるが,烏帽子形公園に寄っていくことにしよう。

 先ほどの石段を,今度は手すりにつかまりながら降りる。いったん,高野街道に戻り,南に歩いていく。
 その途中,扉の閉まった地蔵堂があり,その近くには小さな石仏,それに,古びた石碑が立っているのを見つけた。道標には,「右 さかい 大坂」,「左 いづみ」 と刻まれている。

 

道標   小さな石仏たち

(左)道標   (右)小さな地蔵

 

 そこからしばらく街道を行くと自動車道に出る。そこを渡って行くのが高野街道だが,ここは右に折れて,烏帽子形公園を目指す。
 河内長野に住んで25年あまりになるが,このあたりに来るのは初めてだ。左手には,比較的新しそうな烏帽子台という住宅地が見える。ほどなく,公園入り口があり,駐車場の脇の坂を登るとフィールド・アスレチックなどの遊具があった。

 

公園入り口   フィールド・アスレチック

烏帽子形公園

 

 遊具の間を抜けると山の中へと続く道があった。階段状に続く道を,雑木林の中を登って行く。
 雑木林の中の道は,薄暗いほどで,意外と急なアップダウンが続く。11月というのに,すっかり汗をかいてしまうほどだ。ところどころにある道標によると,この道は,「堀道」 というらしい。烏帽子形城の周囲に廻らされた空堀のあとらしい。確かに,場所によっては,かなり周囲より低くなっている。(写真の場所は,それほでもない)

 

堀道  堀道 

 

 山頂にあるのが烏帽子形城本丸跡だ。本丸跡は,それほど広くないが,これまで歩いてきた途中には,いくつも広場があった。そうした場所には,かって,なにかしら城の建物があったのだろう。

 

烏帽子形城本丸跡広場   烏帽子形城跡石碑

烏帽子形城跡

 

 標高 182 m の烏帽子形山の山頂にあるこの城は,河内国から紀州へ抜ける高野街道を守る要衝の地に作られた城であることは間違いない。この城の下,高野街道を通過しなければ,紀州へも河内へも行けない。
 この城を作ったのは,正慶元 (1332) 年に赤坂城の出城として,楠木正成築城したということになっているが,実のところはっきりしないようだ。
 『平家物語』 に記されている 「河内の長野城」 がここではないかという説などもある。だとすれば,楠木正成よりはるかに古い時期に城があったことになる。
 文献上,最初に認められるのは,大永 4 (1524) 年というから,これだと正成より 200 年ほど後の話になる。
 一方,発掘調査によると,南北朝時代の銅銭などが出土しており,正成の頃に存在していた可能性は否定できないともいう。
 いずれにせよ,かなり古くから城としてこの地にあり,元和年間に廃城されるまで,いろいろな城主を迎えながら,この地を抑えていたのだ。そして,街道沿いにこの城が作られたのではなく,この城の麓を通るように街道が整備されたのだという。確かに,地図を見てもらえばわかるように,現在の国道 371 号線やその少し東側の道の方が直線的であり,この城の下を通るのは,わざと迂回しているのだとしか思えない。関所のような役割を果たしていたのだろう。

 本丸広場を降りて,さらに雑木林の道を北に進むと,古墳広場に出る。
 河内長野市内にも,かっては多くの古墳があったと考えられるが,田畑や宅地として開発され壊されたようで,現在では,2基の古墳が残っているだけだ。そのうちの1つがこの烏帽子形山古墳である。
 直径 20 m,高さ 3 m の円墳で,かって掘られた時に,横穴式の石室と羨道が確認されたという。

 

烏帽子形山古墳  烏帽子形山古墳

 

 烏帽子形公園をあとにして,高野街道に戻る。
 しばらく民家の間の道を歩いていくと,角に空き地があり,その手前に小さな寺がある。増福寺という。
 南北朝時代の中ごろ,畠山氏が越前守護職から河内守護職に就いた。畠山義深がこの上田の地に七宝庵を設け,隠居したが,彼の死後,村人により追善法要が営まれ,同地に寺を建立したのがはじめという。

 

増福寺  増福寺

 

 増福寺からすぐの角を左に曲がる。老人ホームや市立幼稚園があり,その前をやり過ごすと,下り坂になる。坂を降りきると国道 371 号線に再び出会う。国道を渡り,路地に入っていくと,そのあたりの路面は,赤っぽく色づけられており,それが高野街道であることを示している。最初の角を直角に右に曲がる。

 天見川にかかる三日市橋の手前右奥に,真言宗の月輪寺 (がちりんじ) がある。本尊は,木像の薬師如来坐像。13 世紀初めのころの作といわれているが,像の底面には,江戸時代の宝暦 3 (1753) 年に高野山の仏師により修理されたことが記されているという。

 

月輪寺  月輪寺 

 

 三日市橋を渡ってほどなく道端に真新しい石碑が立っている。今年,建てられたばかりのもの。
 油屋本陣跡のもの。あわせて,「天誅組史跡」 という小さな碑も立てられた。

 

油屋本陣跡  油屋本陣跡 

 

 文久 3 (1863) 年 8 月,天皇の大和行幸が計画され,その先鋒となるべく,過激な尊皇攘夷派の公家 中山忠光が同士を集め,大和で挙兵することを計画した。
 彼らは,8 月 14 日,京から淀川を船で下り,さらに南下して,15 日には,堺に上陸し,西高野街道を狭山まで進軍。そこから,東へ進み,挙兵の準備を進めていた河内向田村 (現富田林市) の水郡善之祐宅を目指した。そこで,河内の同士たちと合流。彼らこそが,天誅組であった。
 武具などを整えた彼らは,東高野街道を南下し,三日市宿を目指した。8 月 17 日のことだ。そして,未明に,油屋旅館に到着し,ここで休息をとり,また,人夫や駕籠を調達し,観心寺に参詣後,千早峠から大和五條へ進軍していった。
 この天誅組には,長野村の吉年米蔵も参加していたが,途中足を痛めたため長野村に帰され,後方支援部隊となったという。
 天誅組は,五條代官所などを襲撃し,代官らを殺害するなどしたが,折から,三条実美らが都落ちするなど京都での政治情勢が大きく変化し,彼らの挙兵の目的が失われてしまった。そればかりか,京都守護職から追討令が出され,十津川,吉野などに逃れ,結果,多くの者が戦死,あるいは,逮捕されて刑死している。

 幕末の動乱の影が,この河内長野にも伸びていたわけである。

 街道を歩いていると,今も三日市宿の古い町並みが残っている。
 江戸時代には,150軒あまりの町家のうち,旅籠など旅人相手の商家が100軒あったという。中でも,国登録文化財の八木家住宅は,江戸時代の建物で,18 世紀後半に建てられたものと推定されている。

 

三日市宿  八木家住宅

三日市宿の町並み   八木家住宅

 

 一風変わった建物も保存されている。旧三日市交番の建物だ。
 昭和 27 年に建てられた交番で,木造2階建てで,交番の執務室と住居を兼ねたもの。いわゆる駐在所を伝える建物で,大阪府内には,もうここにしか残っていないという。

 

旧三日市交番  旧三日市交番

 

 こうした町並みを抜けると南海高野線・三日市町駅に出る。大正 3 年の開業で,近年,駅周辺とあわせて,大きく生まれ変わった。

 

三日市町駅  三日市町駅

 

 駅前のロータリーには,高野街道の案内図やかって駅の近くにあった古い道標が移設されていたりする。

 

案内図  道標

 

 駅前のロータリーを通り,横断歩道を渡る。南に続く細道が,高野街道の続きになる。真新しい道標も立っているので,間違えようがないだろう。
 しばらく歩いていると,橋の手前の電柱のそばに,立派な道標が立っている。見ると,「西 高野山女人堂 江 八里」 とある。前に,「十三里石」 を堺の榎元町で見かけた。そうか,あそこから五里,高野山に近づいているわけだ。
 ついでに言えば,我が家にもずいぶん近づいた。今日のお散歩は,ここを終点とすることにしよう。

 

八里石  八里石 

 


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