たまにはお散歩


 

第 13 回 堺〜宿院,大小路周辺など (2010.10.16.)

 

 今,私は,宿院の駅前にいる。駅というより,停留場と呼ぶ方が正確だろう。「阪堺電気軌道株式会社」 の阪堺線の停留場である。
 阪堺電気軌道株式会社は,阪堺電車,チンチン電車と呼ぶ方が親しまれているが,大阪に残る路面電車である。大阪市内の恵美須町停留場から堺市の浜寺公園駅前停留場までを結ぶ阪堺線と天王寺停留場から住吉公園停留場を結ぶ上町線からなり,両者は,住吉停留場で交差する。
 明治30年5月に設立された「大阪馬車鉄道株式会社」が上町線の前身で,社名の通り,馬が客車を引くというものだった。一方,阪堺線の方は,明治43年3月に設立された 旧「阪堺電気軌道株式会社」が前身である。以来,紆余曲折はあるものの,両方の路線は,現在もなお運行されている。

 久しぶりのお散歩は,この宿院停留場からスタートしよう。(地図参照

 

宿院停留場  阪堺電車

宿院停留場と阪堺線車両

 

 この阪堺線の走る道路は,紀州街道にあたり,大坂から住吉大社を経て,海沿いに紀州につながる街道である。江戸時代には,紀州家の参勤交代の道でもあった。

 ところで,宿院という地名であるが,これは,住吉大社の宿院頓宮がこの地にあることに由来する。まずは,その宿院頓宮に参拝しよう。

 宿院停留所から南東へ約200メートルほど行くと,宿院町東の交差点があり,その西側に宿院頓宮がある。

 

宿院頓宮  宿院頓宮

 

 宿院頓宮は,住吉大社のお旅所であり,住吉大社の夏祭りの際,8月1日には,船型の山車に神輿を乗せて,この頓宮まで引かれてきて,荒和大祓神事 (あらにごのおおはらいしんじ) がとり行われる。
 ちなみに,この宿院頓宮は,和泉国一宮である大鳥大社のお旅所ともなっており,そのためもあって,祭神は,住吉大社の祭神である住吉大神と大鳥大社の祭神の大鳥井瀬大神を祀っている。

 

宿院頓宮拝殿  宿院頓宮拝殿

 

 現在は,境内はさほど広くない。地図で測ってみると,74 メートル,40 メートルほどだ。しかし,往時には,東西1町半,南北1町,四方に溝をめぐらしていたという。1町といえば,約 109 メートルだから,現在の4倍以上の広さがあったのだろう。住吉大社のお旅所ならば,それくらいは少なくともあったろう。

 境内の西側に,「飯匙堀」 がある。「飯匙」 は 「いひがひ」 と読み,文字通り,形が飯匙ににていることから,そう呼ばれるようになったという。

 

飯匙堀  飯匙堀

飯匙堀

 

 ここでひとつ伝説を紹介しよう。海幸,山幸の伝説だ。『日本書紀』 の 「一書」 に記されている。

 兄である海幸彦こと「火のすそりの命」(漢字が出ませんでした)と弟の山幸彦 「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)」 がお互いの道具を交換することにした。しかし,そうした道具は,食料を獲得するための神秘的な力のこもったものであり,交換などするべきではなかったので,兄は,悔やんで,弟に彼の道具である弓矢を返し,自分の釣鉤を返して欲しいと,弟に言った。ところが,弟は,その時すでに兄の釣鉤を失くしてしまっていた。仕方がなく,新たに釣鉤を作って兄に渡すのだが,当然,元の釣鉤ではないので,兄は怒る。
 困り果てた弟の彦火火出見尊が海辺を歩いていると,塩土老翁 (しほつつのをぢ) に出会う。塩土老翁は,悩んでいる彦火火出見尊に分けを聞くと,それならば海神 (わたつみ) に会えばいいと助言する。
 彦火火出見尊が海神の宮に行くと,海神は,魚たちになにか知らないかと問うと,鯛の口が変だということになった。そこで鯛の口を探ると,兄の釣鉤が見つかった。それから,彦火火出見尊は,海神の娘である豊玉姫と結婚することになる。
 海神は,もしあなたが元のところへ帰るのであれば,私が送ってあげようと言い,釣鉤を渡し,また, 「潮満瓊 (しほみちのたま)」 と 「潮涸瓊 (しほひのたま)」 を献上した。
 釣鉤を兄に返す時,この釣鉤は,「貧鉤 (まぢひ)」 だと言って返しなさいと,海神は教えた。さらに,兄が怒っているのなら,潮満瓊を使えば,たちどころに潮が満ち,兄は溺れるだろう。その時,兄が悔い,祈れば,潮涸瓊の使いなさい,そうすれば,たちまち潮が干くだろう,と教えたという。

 のちに,この 「潮満瓊」 は北の住吉大社の玉出島に,また 「潮涸瓊」 は南の堺のこの地に納められたという。こうしたことから,この宿院頓宮が成立したのではないかと考えられる。
 そして,毎年夏に,飯匙堀に住吉大社の神輿が移され,荒和大祓神事が行われるのだそうだ。

 さて,ここで,もう一度,宿院停留場の方に戻る。
 宿院の交差点を渡り,すぐの路地を南に曲がる。しばらく行くとビルの谷間に空き地が残されている。そこが,千利休屋敷跡だ。今は,井戸が残るだけだが,敷地にせよもっと広いものだったはず。それでも,84 万人近い人口の堺市の中で,わずかな敷地を残して保存しているのは,それでも良しとするべきか。

 

千利休屋敷跡  千利休屋敷跡

千利休屋敷跡

 

 実は,数年ぶりにお散歩しようと思ったのは,井上靖の 『本覺坊遺文』 を,これまた数年ぶりに読み返していたからだった。千利休の弟子である本覺坊の残した手記という体で書かれたこの小説は,太閤秀吉から死を賜った千利休の死の意味を,そしてその死によって完成した千利休の侘茶の精神を描く。
 その千利休は,中世末期の大永 2 (1522 ) 年に和泉国・堺の納屋衆 (倉庫業)(屋号「魚屋 (ととや)」)に生まれた。若い頃から,茶の湯に親しみ,北向道陳 (きたむきどうちん),ついで武野紹鴎 (たけのじょうおう)に師事した。また,堺の南宗寺に参禅し,同寺の僧 大林宗套 (だいりんそうとう) から 「宋易」 という法名をもらい,以後,この千宋易という名前を用いていた。
 織田信長,豊臣秀吉に仕え,天正 13 (1585) 年の秀吉の正親町天皇への禁中献茶の際,天皇より,「利休」 という居士号を賜ったという。
 このように,利休という号は,晩年のもので,茶人としての大半は,宋易と名乗っていたようだ。
 この秀吉との時代には,京都の聚楽第内に屋敷を構え,前田利家や古田織部,細川忠興ら多勢の大名や大徳寺などの高僧とも交流を深め,侘び茶を完成させていった。
 が,突然,秀吉の勘気に触れ,天正 19 (1591) 年 2 月 13 日,聚楽第を追われ堺へ蟄居するように命じられる。そして,再び聚楽第に呼び戻され,2 月 28 日に切腹することになる。
 切腹を賜った理由は,わからない。いくつかの伝説は残されてはいるが,いずれも噂話のようなもののようだ。

 ――御命令で堺に移りましてから,ずっと死が見えております。茶の湯は,己が死の固めの式になりました。茶を点てても,茶を飲んでも,心は静かでございます。死が客になったり,亭主になったりしてくれております。師の紹鴎が,連歌の極みは枯れかじけて寒いというが,茶の湯の果てもまたかくありたいものであると,そのようなことを言っておりましたが,その枯れかじけて寒い心境というのは,こういうものであろうかと,何回思ったことでございましょう。

    井上 靖 『本覺坊遺文』 より

 利休の墓は,京都・紫野にある臨済宗大本山大徳寺の聚光院にあるが,ここ堺にもある。
 宿院より少し南の南旅篭町東にある臨済宗大徳寺派・龍行山・南宗寺 (なんしゅうじ) だ。
 

 

南宗寺  南宗寺

南宗寺北門と甘露門 (山門)

 

 ここは,先にも書いたが,利休が若い頃に修行をした寺で,墓には,遺髪が収められているという。また,利休の侘び茶の流れをくむ,武者小路千家,表千家,裏千家の,いわゆる 「三千家」 の墓所にもなっている。写真の中央が,千利休の墓,右が表千家不審庵,左が裏千家今日庵,手前右端に少し見えているのが武者小路千家官給休庵の墓だという。

 

千利休と三千家の墓  千利休と三千家の墓

 

 墓地を抜け,樹木に囲まれたところに,方丈がある。写真を撮ろうと試みたが,樹木の陰になり,おそらくはお堂の屋根の一部がかろうじてわかる程度だろうと思い,結局,シャッターは切らなかった。
 方丈の前のお庭は,枯山水式の禅庭園で,古田織部の作だと伝えられている。さほど広い庭ではないが,方丈の縁側からでは,全体を写すことはできなかった。

 

方丈前庭  方丈前庭

 

 方丈を出て,樹木の間の小道を行くと方三間の主室に裳階をまわした方五間の本瓦葺の仏殿がある。その本尊は,釈迦如来で,左右に文殊菩薩,普賢菩薩を安置している。仏様は,意外に小さなお姿であるが,目より高い位置に安置されている。
 また,天井には,狩野外記信政の筆になる 「八方睨の龍」 が描かれており,参拝者を見下ろしている。

 

釈迦如来  天井絵

仏殿本尊と天井絵

 

 仏殿の外へ出,小さな門をくぐる。振り返ると,土塀の佇まいが歴史を偲ばせる。思わずシャッターを切った。

 

土塀  土塀

 

 折から,大茶会が催されており,境内には,和服姿のご婦人の姿も多く,野点の席が設けられ,お茶を振舞われていた。

 

野点  野点の席

 

 南宗寺を出て,北に向かう。その途中,「今井屋敷跡」 の碑が立っている。今井宗薫といえば,豪商であり,茶人でもあった。徳川の時代になってからは,1300 石の旗本にもなり,広大な屋敷を持っていたという。しかし,今は,石碑と案内板が立っているだけだ。

 

今井屋敷跡  今井屋敷跡

 

 さらに歩いていくと最初に訪れた宿院頓宮のある宿院東の交差点に出る。そこを左折してしばらくすると,山之口筋交差点があり,そこから北へ山之口商店街に入る。
 ほどなく鳥居があり,そこが,開口神社 (あぐちじんじゃ) である。

 開口神社は奈良時代には開口水門姫神社と称しており、最古の国道と言われる竹内街道の西端にあって大阪湾の出入口を守る神社で、神功皇后勅願によって建立されたと伝えられます。
堺の集落はこの辺りから発展し、町となって来ました。
その後、平安末期の天永4年(1113年)開口・木戸・原村の神社が合祀され堺の総氏神として崇敬を集め、また江戸時代まで念仏寺というお寺が境内に在った事から今も大寺さんといわれ親しまれています。

    開口神社HPより

 また,神功皇后が神撰を奉ったところ,皇后を守護していた塩土老翁神が初めて口を開いたことから,開口神社と呼ぶようになったという。
 神功皇后といい,塩土老翁神といい,いずれも住吉大社との関係の深さをしのばせ,この堺が,古代の湊であったことを裏付けてもいるようである。

 

開口神社  開口神社鳥居  開口神社社殿

 

 開口神社を出て,西へ行き,紀州街道に出る。さらに街道を西に渡る。そうすると,与謝野晶子の生家跡の碑が歩道に立っている。
 その隣には,歌碑もあり,

海恋し潮の遠鳴りかぞへては少女となりし父母の家

 という歌が刻まれている。
 『恋衣』 の中の一首で,明治 34 (1901) 年に上京し,3年を経過した明治 37 (1904) 年に 『明星』 8月号に発表されたもの。ちなみに,この翌月の同誌には,有名な 「君死にたまふことなかれ」 を発表し,大きな話題・論争となったものである。
 与謝野晶子は,明治 11 (1878) 年に,老舗和菓子屋 「駿河屋」 の三女として生まれた。明治 33 年に与謝野鉄幹と出会い,翌年には,生家を出て,鉄幹のいる東京へ出た。以後,『明星』 に多数の短歌を発表し,また,『青鞜』 創刊号に寄稿したり,『源氏物語』 の現代語訳を出版するなど,多方面で活躍した。特に,女性の自立を訴える活動家としての一面も忘れてはならないだろう。

 

与謝野晶子生家跡  与謝野晶子歌碑

与謝野晶子生家跡・歌碑

 

 さらに紀州街道を北へ進み,大小路の交差点,停留場を過ぎ,花田口の交差点,停留所まで歩く。この交差点の西側に,ザビエル公園がある。かって,日比屋了慶の屋敷があったところで,その屋敷には,フランシスコ・ザビエルが京都に向かう途中,逗留し,キリスト教を伝えたという。天文 19 (1550) 年のことだ。その後,フロイスなども滞在したことがあるらしいが,今は,公園になっている。
 ただ,残念なことに,ちょうど,「第 37 回 堺祭り」 の行われている今日は,「なんばん市」 として,公園周辺だけでなく,公園内も,屋台やらイベント会場があり,多くの市民であふれかえっている。今日のところは,素通りすることにしよう。

 

ザヴィエル公園  ザヴィエル公園

 

 花田口の交差点を東に曲がり,北へさらに曲がって府立泉陽高校過ぎると,妙国寺へ出る。妙国寺の手前には,奇妙な石碑が立っている。
 左の写真の石碑には,「そてつ」 と刻まれている。右の写真の石碑には,「とさのさむらいはらきりのはか」 と彫られている。

 

妙国寺近くの石碑  そてつ  とさのさむらいはらきりのはか

 

 両方の写真に写っている白い線の入った塀が,妙国寺の塀だ。
 この妙国寺には,創建時に寄進されたソテツの木がある。残念ながら,そのソテツを見ることはできなかったが,このソテツ,織田信長が安土城に移植したことがあったという。ところが,夜な夜な,「堺に帰ろう」 と泣き声がしたという。そんな木は切ってしまえ・・・すると,切ろうとした途端に血が流れたといい,結局,この寺に戻すことになったという。
 それが,「右そてつ」 の石碑の意味あいである。

 では,「とさのさむらいはらきりのはか」 とは,どういうことか。
 妙国寺の向かいに,宝珠院がある。ここには,土佐十一烈士の墓がある。
 土佐十一烈士とはなにか。

 時は,幕末,慶応 4 (1868) 年 2 月 15 日。堺沖にフランスの軍艦デュクプレス号がやってきた。そして,数十名の水兵がボートで上陸してくる。その頃,堺を警護していたのは,土佐藩士であったが,箕浦猪之吉,西村左平次を隊長とする藩士たちは,上陸目的のわからないフランス水兵たちを船に戻すべく駆けつけた。しかし,まったく言葉が通じない。そのうち,フランス水兵たちは,隊旗を奪うなどし始めたため,ついに互いに発砲し銃撃戦となり,水兵11名を殺傷する事件となった。いわゆる,「堺事件」 である。
 当然,諸外国からの強い抗議があり,箕浦,西村隊長ほか隊員すべてを斬首すること,土佐藩はフランスに,15万ドルを支払うことなどを要求。時の明治政府は,すべての要求を受け入れ,2 月 23 日,隊員20名が妙国寺で切腹することになった。
 この切腹の席には,日仏代表が立ち会ったが,箕浦隊長らは,腹を切るとともに,自らの内臓をフランス代表に投げつけるなど,実に凄惨な状況になり,さすがのフランス代表も,11人が切腹したところで,残りの者の助命を乞い,さっさと引き上げていったという。
 この土佐藩士11名の墓が,妙国寺の向かいにある宝樹院にあり,妙国寺には,11名の慰霊碑が建てられている。

 

土佐十一烈士の慰霊碑  土佐十一烈士の慰霊碑

 

 妙国寺をあとにし,大小路通りへ向かう。この通りは,先に開口神社のHPを紹介したが,その中にあったように,日本最古の国道である竹内街道である。また,高野山に向かう西高野街道でもあるのだ。その街道を歩き,そろそろ引き上げようかと思う。

 その途中に,菅原神社があるので,参拝していく。
 菅原神社は,大宰府に流された菅原道真が彫り,海に流した7つの天神像のうちの一体が堺の浜に流れ着き,しばらくは付近の住人の民家に安置されていたが,その後,長徳 3 (997) 年に天神社を創建したのが始まりと言われている。

 

菅原神社鳥居   菅原神社本殿

菅原神社

 

 境内には,江戸時代末から明治中期に立てられた 「奇縁冰人石 (きえんひょうじんせき)」があり,これは尋ね人や迷子探しにご利益があるという。

 

奇縁冰人石  奇縁冰人石

 

 また,堺戎神社,堺薬祖神社がある。

 

堺戎神社  堺薬祖神社

堺戎神社と堺薬祖神社

 

 さて,竹内街道に出よう。この大小路通りは,南海本線の堺駅と南海高野線の堺東駅とを結ぶ道で,交通量も多く,人通りも多い。堺駅から大小路のあたりは,いわば旧市街であるが,堺東周辺は,21階建ての高層館もある堺市役所や大阪地方裁判所堺支部など官庁街になっており,今では,こちらが堺市の表玄関になっている。

 

大小路通りから市役所高層館  大小路通りから市役所高層館 

 

 市役所高層館の最上階は,展望ロビーになっており,一年中,午前9時から午後9時まで,市民に開放されている。360度のその眺めは,大阪中を見渡せる。
 一度,上がってみよう。まずは,今歩いてきた西の方角。写真の中央の並木道が大小路通りだ。奥の方は,堺港になるが,もやっていてはっきりしない。

 

大小路通り  大小路通り 

 

 南東の方角には,仁徳天皇陵が見える。全長約 486 メートル,後円部径約 249 メートル,高さ約 35.8 メートル,前方部幅約 307 メートル,高さ約 33.9 メートルの規模を誇るが,あまりの巨大さにここからでも,よくわからないほどだ。
 写真の奥の山並みは,右側が和泉葛城山などの和泉山地,少し低くなったあたりが紀見峠,写真左端が金剛山系となる。西高野街道が向かう方角だ。

 

仁徳天皇陵  仁徳天皇陵

 

 東の方角を見ると,遠くニ上山が望める。竹内街道は,この方向に向かっているわけだ。

 

ニ上山  ニ上山 

 

 東北の方には,市街地の真ん中に,反正天皇陵が見える。全長約 148 メートル,後円部径約 76 メートル,高さ約 14 メートル,前方部幅約 110 メートル,高さ約 15 メートルという規模で,百舌鳥古墳群では7番目の大きさを誇る。
 その先の2本のビルの辺りは,JR堺市駅になる。

 

反正天皇陵  反正天皇陵 

 

 この反正天皇陵のあたりは,北三国ヶ丘町にあたる。長崎生まれの詩人,伊藤静雄が,昭和 11 (1936) 年 12 月に,北三国ヶ丘町 40 番地に転居してきた。その頃の彼は,京都大学を卒業して,府立住吉中学に教師として赴任してから7年目にあたる。
 その頃の彼の詩に,こういうのがある。

   春の雪
  みささぎにふるはるの雪
  枝透 (す) きてあかるき木々に
  つもるともえせぬけはひは

  なく声のけさはきこえず
  まなこ閉ぢ百 (もも) ゐぬ鳥の
  しづかなるはねにかつ消え

  ながめゐしわれが想ひに
  下草のしめりもかすか
  春来むとゆきふるあした

 この詩の 「みささぎ」 とは,反正天皇陵のことだろうか・・・

 市役所を出て,いったん南に道を行き,新町交差点を左折して東に向かう。この道が,竹内街道であり,西高野街道である。
 南海高野線の踏切を渡り,しばらく家々の間の路地を歩いていくと,道の左側に,お地蔵さんの祠があり,そのすぐ脇に古い石碑が立っている。

 

十三里石  十三里石 

 

 よく見ると,「高野山女人堂十三」 と読める。十三の下は,埋もれてしまって読めない。
 これは,高野山女人堂から大小路までの間に建てられた十三基の里石道標のひとつで,ここから,女人堂まで十三里であることを記す。
 河内長野市観光協会のHPによると

 13本の里石道標の建立を発起(発願)したのは、河内、茱萸木村(現大阪府狭山市)の百姓人・小佐衛門・五兵衛の二人ですが、その素性は全くわかりません。
 里石の石材は花崗岩で、高さは地上より約150cm前後、幅24p位の直方体の四面に、女人堂までの里数、建立年月、発起人両名の名、施主(建立寄進者)名、そして「南無大師遍照金剛」と刻み同じ形式でつくられています。

    河内長野市観光協会HPより

 高野山へお参りするという民間信仰が広まっていたことを感じさせます。

 この十三里石のすぐ先で,道が二手に分かれる。竹内街道と西高野街道の分岐点だ。
 左の道を行けば,竹内街道。大和川の南側を二上山を目指し,やがて大和飛鳥に通じる。
 右に進めば,仁徳天皇陵の北側から河内長野を通り,高野山に向かう。
 久しぶりのお散歩で,さすがに疲れてきた。右の道を行こう。そうすれば,仁徳天皇陵に近い南海高野線の三国ヶ丘駅に出る。そこから,電車に乗り,家路につくことにしよう。

 

分岐点  分岐点


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