たまにはお散歩


 

第 12 回 高野山 (2007. 8.24.)

 

 今年の夏は,異常に暑い。全国的にも,40度を超える日があった。少々夏バテ気味なので,一日休暇を取る。これで,三連休になった。
 ゆっくり,ゴロゴロしながら休むのもいいが,このところ運動不足なので,少し歩いてみるのもよかろう,そう思うと,出かけることにした。

 家から河内長野までバスに乗る。南海・河内長野駅に着いて時刻表を見ると,高野山行きの特急がある。もうすぐ来るらしい。改札で特急券を買う。高野山へ行こう。(地図参照

 約50分ほどで,終点 「極楽橋駅」 に着く。古びた駅だ。ここから,高野山へは,ケーブルカーで 「高野山駅」 まで上がり,そこからバスに乗るというのが一般的なルートだ。1930 年に開通したというケーブルカーを使うと,「高野山駅」 まで約 5 分。
 しかし,運動不足解消という目的もある。昔の人の高野山巡礼の旅を,ほんの少し体験する意味でも,二本の足で歩いてみることにしよう。

 

極楽橋駅  極楽橋駅

 

 極楽橋駅の改札は狭い。ほとんどの人がケーブルカーを利用するからだろう。自動改札機2台分しかない。実際,この改札を抜けるのは,今の特急で降りた乗客では,私以外には,4名ほどしかいないようだ。

 改札を出て,狭い下り坂をおり,線路に沿って大阪の方へ戻る道を進む。
 しばらく行くと,線路が見え,今,降りたばかりの特急電車が見える。

 

特急電車  特急電車

 

 さらに坂道を今度は登って行くと,赤い橋が現れる。これが駅名にもなった 「極楽橋」 だ。

 

極楽橋  極楽橋

 

 この橋を渡り,うっそうとした杉林の中の坂道を登って行くのが,参詣コースのひとつ 「不動坂」。この道は,駅でいうと6つほど大阪よりの 「九度山駅」 から,高野街道から分かれた道で,金剛峯寺へ北から入る道になる。

 京・大坂から高野山への道は,今,述べたが,「高野街道」 として古来から整備されていた。高野街道には,いくつかの道があり,京都・平安京から大阪の枚方を抜け,南に下る 「東高野街道」。大坂からは,「中高野街道」 と 「下高野街道」。さらに堺からの道 「西高野街道」 が知られている。こうした道は,河内長野で合流し,現在の南海電鉄・高野線にほぼ沿うように高野山に向かう。(もちろん,高野線の方が,高野街道に沿っていると言うべきだろう)

 高野街道の本道ともいうべき道は,先に書いた九度山から,金剛峯寺 「大門」 に至る,いわゆる 「町石道」 で,そこは,奧の院まで一町ごとに 「町石」 の建つ約 24 キロメートルの道だ。なかなか風情のある道として知られ,人気のあるコースである。

 しかし,今日は,それだけ歩く自信もないので,極楽橋からの不動坂を登ることにした。すぐに,風化した道標があった。

 

不動坂  不動坂

 

 それほどきつい登りではない。杉林の影に吹く風も心地よい。ミンミンセミの声,鳥の声を聞きながら,ゆっくりと歩いていく。
 運動不足だ・・・10 分も歩くと,どうしてケーブルカーに乗らなかったのだろうと後悔する。汗が吹き出てくる。息が上がる。あの杉の木まで,あの曲がり角まで・・・そう言い聞かせながら,歩く。歩いては立ち止まり,立ち止まっては,歩を進める。
 急に視界が開くと,谷の向こうに山が見える。楊楊山だろうか。

 

杉林の切れ目から  杉林の切れ目から

 

 どれほど歩いたろう。半分くらいは来たのだろうか。清不動堂があった。この不動堂については,空海が創建したとも言われていますが,はっきりしたことがわからない。江戸時代に再建されたらしい。しかも,現在の場所ではなく,別の場所だったようで,現在地に移されたのは,大正9年だといいます。不動坂そのものが,新しい道に変えられたからのようだ。

 長い登りを歩いてきて,出会うお堂は,なんとも涼しげだった。しばらく立ち止まり,持参したスポーツ・ドリンクを飲む。近くには,稚児の滝があるようだが,清流の音だけ楽しむことにした。

 

清不動堂  清不動堂

 

 くねくねと曲がりながら,少しずつ高度を稼いでいく。ますます,息があがり,苦しくなる。途中,中年の男性に追い抜かれ,さらに3人づれの学生さんに,「こんにちは」 と,明るい声をかけられて,追い抜かれた。

 山道が,突然切れ,舗装されたバス専用道路に出会う。ここからは,少し舗装した道を行く。すると,古びたお堂が見えた。「女人堂」 だ。

 

女人堂   女人堂

女人堂

 

 明治5年に,女人禁制が解かれるまで,高野山には,ここまでしか女性は入れなかった。そのため,七ヶ所ある入山道からの入り口に,女人堂が建てられた。現在残っているのは,この不動坂を登りきったところにある女人堂だけだ。

 女人堂を過ぎると,すぐに左右に燈篭が立つ。右に 「高野山」,左に 「金剛峯寺」 の文字が見える。その間を通り,しばらく歩くと,いよいよ中心街に入る。たくさんの堂塔が立ち並び,間に,みやげ物屋などが並ぶ。

 

不動口  不動口燈篭左   不動口燈篭右

 

 町の中は,比較的平坦だ。そこが,奥深い山の中とは思えないほどだ。もちろん,周囲には,1000 メートル級の山々が連なっている。

 金剛峯寺のHPには,

 標高1000メートル前後の山々に囲まれた平坦地に諸堂が立ち並ぶ姿は、『蓮』の花が開いた様であり、『八葉の峰』とも呼ばれ、内に八葉(峰)外に八葉の山々に囲まれています。内の八葉は、根本大塔をめぐる八峰で『伝法院山、持明院山、中門前山、薬師院山、御社山、神応丘、獅子丘、勝蓮華院山』と呼ばれ、山上の周辺にそびえる外の八峰は『今来峰、宝珠峰、鉢伏山、弁天岳、姑射山、転軸山、楊柳山、摩尼山』とよばれています。その地形からしても、まさしく聖地としてふさわしい山上の宗教都市です。

    高野山真言宗 総本山金剛峯寺HP より

 と,あり,周囲の八つの山々とこの町の中の八つの丘が 「蓮」 の花をあらわしているのだという。

 蓮華定院,徳川家霊台,波切不動など,いくつもの寺院を通り過ぎると,右手に杉林が見える。この奧,南側に 「高野山真言宗 総本山金剛峯寺」 がある。

 「高野山真言宗 総本山金剛峯寺」 がある,と書いたが,金剛峯寺というのは,高野山全体であり,今,金剛峯寺と呼ばれているのは,その一部でしかなく,豊臣秀吉と結びつきの深い建物・伽藍を指しているにすぎない。

 

杉林  杉林

 

 杉林の尽きた角を曲がってしばらく歩くと,ちょうど寺の東側の門に出会う。道路からは,ゆるやかな勾配で,わずかな段差をつけた薄い石畳が門まで続く。この門を 「下門」 と呼ぶ。

 

下門  下門

 

 下門をくぐるとすぐに広い境内になり,右手に拝観受付の入り口がある。

 せっかくだから,本堂を拝観する。
 内部は,古い木の廊下が続き,いくつもの部屋の内部を見せてくれる。部屋の襖絵の多くは,狩野派の画家たちが描いたものだ。古びてはいるが,描かれた絵の力強さは,伝わってくる。

 

金剛峯寺  金剛峯寺

 

 中庭 「蟠龍庭」 の静かな,それでいて動きのある佇まいも興味深い。

 

蟠龍庭  蟠龍庭

 

 高野山を開いた空海は,遣唐使として中国に渡り,そこで3年間,学んだという。帰国後の弘仁7(816)年,嵯峨天皇に許され,高野山で真言密教の道場を開く。以来,1200 年近くの間,聖地として,人々が足を運んでいる。また,2006 年には,「世界遺産」 に登録された。

 今訪れた金剛峯寺の他に,数え切れないほどの寺院が立ち並んでいるが,「壇上伽藍」 と呼ばれている伽藍があり,そこには,金堂,根本大塔などが建てられている。そちらにも足を運びたいところだが,今日は,「奥の院」 を目指すことにしたい。

 奥の院には,弘法大師の御廟などがあり,聖地とされている。一の橋から御廟に至る道には,皇室をはじめ,各地の大名,また,現代の企業,個人の墓が立ち並んでおり,その数は,20 万基を超えると言われている。その多くは,苔むした五輪塔である。

 

一の橋  一の橋

 

 一の橋から約 2 キロメートルの道の両側に並ぶ五輪塔などのお墓。そのいくつかを紹介しよう。

 

奥州仙台伊達家  奥州仙台伊達家墓所 

薩摩島津家  薩摩島津家墓所

武田信玄,勝頼の墓  武田信玄,勝頼の墓 

石田三成の墓  石田三成の墓 

明智光秀の墓  明智光秀の墓 

 

 この明智光秀の墓は,円の部分の石が割れている。
 五輪塔は,上から,「宝珠」,「半月」,「三角」,「円,丸」,「方,四角」 の部分から成るが,それぞれ,「頭」,「顔」,「胸」,「腹」,「足」 を表すという。
 光秀の墓の,その丸い部分,腹の部分が割れているのは,本心をみてくれ,という光秀の気持ちから,その部分が割れているのだという伝説がある。
 いずれにしても,数多くの五輪塔があるが,すでに,倒れてしまっているものはあっても,このように割れているものは,他に見当たらない。

 慰霊碑としては,第二次大戦中の慰霊碑も数多くある。が,中には,こんな慰霊碑もある。慶長年間に高麗に出兵した際に亡くなった人を弔う慰霊碑だ。

 

高麗敵味方戦死者供養碑  高麗敵味方戦死者供養碑 

 

 一際,大きな五輪塔は,加賀・前田利家公の墓だ。大きさでは,高野山でも二番目の大きさだと言う。

 

前田利家の墓  前田利家の墓 

 

 さらにしばらく行くと,少し道から外れたところに,豊臣秀吉をはじめとする豊臣家の墓所がある。広いが,それほど大きくはない。

 

豊臣家の墓  豊臣家の墓 

 

 明智光秀,豊臣秀吉とくれば,織田信長の墓もある。

 

織田信長の墓  織田信長の墓

 

 なぜか,すぐ左手に筒井順慶の墓が寄り添っている。

 まもなく,墓所が終わる。橋があり,そこから先に,弘法大師の御廟がある。

 

御廟  御廟 

 

 写真ではわかりにくいが,橋の向こう,杉木立の奥に,弘法大師の御廟がある。まさに,奥の院まで来た。
 橋の袂の掲示板に,この橋から先は,撮影禁止とある。ここらで,デジカメをカバンに納めよう。そうして,空海と高野山を守ってきた先達の行いに祈りを捧げてくることにしよう。

 どれほど歩いたろうか。距離的には,大したことはなかろう。しかし,ここしばらく,お散歩もしていなかった私は,けっこう疲れた。足に疲労感がある。
 今回は,思いつきで来てしまったために,真言密教の真髄に触れることまではできなかった。もう少し,お勉強もして,また来ることにしようと思う。

 そんな反省もしながら,中の橋の駐車場まで,ゆったりと戻る。帰りはバスに乗ろう。そして,ケーブルカーで下山することにしよう。

 

ケーブルカー  ケーブルカー 

 


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