たまにはお散歩


 

第 11 回 斑鳩の里・法隆寺から法起寺へ (2006. 7.21.)

 

 何年ぶりだろう,「お散歩」 に出かける気になった。しかし,あいにくの激しい雨だ。全国的な,この数日の大雨で,大きな被害が出ているところもあるとテレビのニュースは伝えている。天気予報では,午後には,雨があがるという。それを期待して家を出る。

 それにしても,強い雨が降り,肌寒いほどだ。こんな天気の中,どこへ行く? とりあえず,奈良方面・・・いや,この数年来,必ず行こうと決めていた場所がある。
 法隆寺・・・。斑鳩の里。ただ,最近は,とんと 「お勉強」 していないので,出かけるのは簡単だが,どうまとめるか,なんにも方向性がない。
 気にはせずに,とりあえず,出かけよう。(地図参照

 JR大和路線 「法隆寺駅」。家を出た時には,あれだけ激しかった雨もあがっていた。電車の冷房が寒いくらいだったが,降りてみると,わずかに日が差して,蒸し暑さを感じるほどだった。

 法隆寺を訪れるのは,10年ぶりくらいだろうか。何度か,訪問しているが,考えてみれば10年ごとぐらいの間隔だろう。前回,訪れた時には,駅を出ると,懐かしさがあったと思うが,今回は,初めて来たような,自分の記憶がアヤフヤなのに驚く。

 踏み切りを渡り,左に折れる。閑散とした商店街を抜け,右に曲がり,北の山側に向かう。国道25号線に突き当たったところで,さらに左に少し行くと,法隆寺への参道にたどり着く。

 

法隆寺への参道  雨上がりの参道

 

 この写真の右側には,舗装された参道がある。まだ,1キロメートルほどしか歩いていないのに,雨上がりで蒸し暑くなっており,すっかり汗をかいた。少しでも日陰を歩きたい。
 足元は,水溜り。細かい砂利のせいだろう,ぬかるんではいない。松の並木ごしに吹き抜ける風が涼しい。アスファルトから立ち上る熱気もない。

 300メートルほどの参道を抜けると,「南大門」 が現われる。幅三間とさほど大きな門ではない。室町時代に建てられた門だという。

 

法隆寺・南大門  南大門

 

 この南大門の石段の下の石畳の中に,大きな石が目立つ。「鯛石」 と呼ばれている。

 

鯛石  鯛石

 

 法隆寺には,「法隆寺の七不思議」 と呼ばれる有名な伝説がある。

1.伽藍にくもが巣をかけない
2.南大門の前に鯛石とよばれる大きな石がある
3.五重塔の上に鎌がささっている
4.不思議な伏倉がある
5.法隆寺の蛙には片目がない
6.夢殿の礼盤 (坊さんがすわる台) の下に汗をかいている
7.雨だれが穴をあけるべき地面に穴があかない

 そのうちの一つが,この鯛石である。
 かって,大和盆地を水害が襲ったという。なるほど,法隆寺の南で,東側を流れる富雄川,西側を流れる竜田川が大和川と合流する (地図参照)。このあたりが冠水したことがあっても不思議はない。
 その水害の際にも,押し寄せた水は,この南大門でピタリと止まり,決して伽藍内部には入らなかったという。そして,水とともにやってきた魚が,ここで石になった・・・

 

中門  中門

 

 南大門をくぐると,参道の向こうに 「中門」 が建っている。間口四間,奥行三間,二層の入母屋造りの,堂々とした門だ。

 近づけば,左右の金剛力士像と中央のエンタシス様式の柱,深く覆いかぶさった軒とそれを支える組物などに圧倒されるほどだ。飛鳥時代に建てられたといわれ,国宝にも指定されている。
 連子窓の美しい回廊が左右に続き,その瓦ごしに見える五重塔などを囲んでいる。この門から内は,仏の世界となる。

 

中門  中門
(クリックすると別窓で拡大されます。)

 

 だが,この門の謎について思い出す。そうなのだ,この門は極めて異例なのだ。

 先ほどの南大門もそうだが,お寺の建物は,ふつう正面は奇数になっている。これまでお散歩してきた数々の寺のすべてがそうだ。
 特に,門は,中央部が開いている。ところが,この中門は,門の真ん中に柱が立ち,入り口を左右に分けている。こんな邪魔な柱のある門など他にはないのだ。

 かって,石田茂作氏は,先に挙げた伝承としての 「七不思議」 ではなく,次のような 「七不思議」 を挙げているという。氏の著作は読んでいないので,それを紹介している 梅原 猛 『隠された十字架 〜 法隆寺論』 (新潮文庫版,1972) から引用する。

1 中門中央の柱
2 金堂・五重塔の裳階
3 中門・講堂中軸線の喰い違い
4 五重塔の四天柱礎石の火葬骨
5 三伏蔵
6 五重塔心礎舎利器に舎利無し
7 若草伽藍の心礎

 それぞれの謎の詳細については,著作を読んでもらうとして,第1番目に,中門の柱が挙げられている。

 間口四間という他には例のない中門。なぜ,わざわざ真ん中に,柱を立てる四間門を造ったのか。その謎については,梅原 猛 『隠された十字架 〜 法隆寺論』 でも,かなりの紙数を費やして論考している。端的に言えば,次の一節を引用すればいいだろうか。

 東洋において奇数すなわち陽の数が,いかに瑞祥として考えられたか。一月一日,三月三日,五月五日,七月七日,九月九日が,節句の日として祝われたことによっても分る。それにたいして偶数は陰の数である。いわば,それは,生の数にたいして死の数なのである。
 建物における偶数性の意味はそれのみではあるまい。偶数性の建物は正面のない建物,それはいわば子孫断絶の建物である。法隆寺に偶数性の原理が支配するのは,ここに太子の霊をとじこめ,怒れる霊の鎮魂をこの寺において行おうとする意志が,いかに強いかを物語るのである。

    梅原 猛 『隠された十字架 〜 法隆寺論』 (新潮文庫版,1972)

 まだ,伽藍の中にも入っていないので,この太子鎮魂については,後まわしにして,先に進むことにしよう。

 ところで,伝承されている 「七不思議」 の中に,「五重塔の上に鎌がささっている」 というのがあった。伽藍内に入り,五重塔の真下から見上げるより,この中門と回廊ごしに見る方が,わかりやすい。五重塔の九輪に四本の大鎌が挿してある。一節には,雷除けだとも言われているが,いつ頃から,何のためなのかは,謎である。

 伽藍に入るには,中門の右手に入り口がある。

 

五重塔・九輪の大鎌  九輪の大鎌

 

 中門からみると,左手 (西側) に五重塔,右手 (東側) に金堂がある。そして,その奥,北側に,大講堂があり,中門と大講堂とは,回廊によってつながっている。「法隆寺様式」 の伽藍配置として有名だ。
 間口5間,奥行4間,二層構造の金堂だが,1階部の屋根の下には,裳階がついていて,独特のリズム感がある。飛鳥時代の様式の建物といわれるが,裳階のある建物といえば,薬師寺の塔を思い出すように,おそらくは,天平時代に建てられたのではないだろうか。

 法隆寺は,世界最古の木造建築だと言われているが,実際のところ,いつ建てられたのか,わかっていない。『日本書紀』 などに,創建の記述がないのだ。
 『日本書紀』 に初めて登場するのは,天智天皇九年四月の条に,

夏四月の癸卯の朔壬申に,夜半之後 (あかつき) に,法隆寺に災 (ひつ) けり。一屋も余ること無し。大雨ふり雷震 (な) る。

     『日本書紀 (五)』 (岩波文庫版,1995)

 と,いう記述が最初だという。天智 9 (670) 年に,法隆寺は焼け落ちた。その後,再建されたわけだが,それがいつだったのかについても,記述がない。

 昭和の大修理の際に,現在の伽藍が完成したのは,7世紀後半であることが確認されたという。同時に,使われている木材について,精密な年代測定が行われた結果,五重塔の心柱は,594 年に伐採されたことが判明した。これは,いったいどういうことか?
 670 年に焼け落ち,その後,7世紀後半に再建された。その再建された五重塔に使われている柱材は,6世紀末に伐採されている・・・100 年近く,木材はどうしていたのだ?

 

金堂  金堂   

 

 金堂の内部には,有名な 釈迦三尊が安置されている。教科書などの写真でおなじみだろう。実際に,拝見すると,意外に小さいのに驚く。1メートルほどの高さだ。光背裏に銘文があり,聖徳太子と妃の追善のために,推古 31 (623) 年に,司馬鞍首止利に造らせたという。
 この釈迦三尊の東側に,薬師如来,西側に,阿弥陀如来坐像が安置されている。

 内陣の壁面には,彩色された壁画が描かれていることでも有名だ。わずかに,見ることができる。

 

経堂  経堂  鐘楼  鐘楼

 

 回廊の大講堂側の,北側の角には,東側に 「鐘楼」,西側に 「経堂」 がある。ほぼ同じような形だ。

 その間に,大講堂が建っている。現在は,間口9間の堂々とした建物であるが,創建時には,間口6間だったという。ここも,偶数の建物だった・・・

 
 

大講堂  大講堂

 

 鐘楼近くの回廊から,金堂と五重塔を撮ったのが,下の写真だ。ともに,初重に裳階をつけた,どっしりとした姿は,美しい。
 五重塔の内部には,塑像の須弥壇,須弥山が造られており,93体の塑像が配置され,東西南北の各面で,釈迦の伝説の一場面を形作っている。東側は,維摩詰像土 (維摩居士と文殊菩薩の問答の場面),南側は,弥勒像土 (弥勒仏の浄土),西側には,分舎利像土 (釈迦の舎利を分ける場面),北側の面には,涅槃像土 (釈迦の入滅の場面) となっている。
 五重塔基壇の石段を上がり,扉の外から見ることができる。ついでに,写真を撮ろうとしたら,係の人に止められた。

 

講堂側から金堂,五重塔  金堂と五重塔

 

 汗が流れ落ちる。そろそろ,東院・・・夢殿の方に行こう。伽藍を後にする。
 途中,喫煙所があったので,そこのベンチに腰をおろし,流れる汗を拭き,一服する。
 夏休みに入ったばかりのせいか,これまでに訪れた時より,圧倒的に人が少ない。こんなに静かなのは,初めてだろう。修学旅行生もいなければ,大型バスで訪れる団体の観光客もいない。この暑さだけは,やりきれないが,心静かに法隆寺を楽しむには,絶好の日だったのだ。

 しかし・・・どうも聖徳太子のイメージがわいてこない。歴史は,1400 年ほど前に,確かに,この地に,少なくともこの近辺に,聖徳太子が暮らしていたという。「冠位十二階」,「十七条憲法」,「遣隋使」・・・推古天皇の摂政として,そうした数々の政治手腕をふるった厩戸皇子,その後の,太子信仰の対象となった聖徳太子,そのどちらとも無縁の佇まい。
 金堂や五重塔の物静かな姿のせいだろうか。それとも,山背大兄皇子の悲劇のせいだろうか。

 山背大兄王の悲劇について,復習しておこう。

関連系図

 推古天皇の当時,厩戸皇子は摂政ではあったが,実権を握っていたのは,蘇我馬子だった。蘇我氏とも縁の深い厩戸皇子ではあったが,飛鳥から離れたこの斑鳩の地に居を定め,寺を建て引きこもる。蘇我氏から身を離し,避難したのだろう。それほど,馬子の権力は絶大であり,皇位継承権のある厩戸皇子にしても,身の危険を察知していた可能性は高い。
 推古天皇の 29 年に,厩戸皇子が亡くなり,次いで,34 年には,蘇我馬子が亡くなる。

 2年後に推古天皇も亡くなると,蘇我蝦夷がまさに実権を握り,次期天皇の選定に入る。その際,候補となっていたのは,敏達天皇の孫 田村皇子 と 山背大兄王のふたり。
 右の略系図に示したが,田村皇子は,出自としては,蘇我一族とは無関係だが,姻戚関係にはある。推古天皇が推薦していたという事情もあった。
 山背大兄王は,蘇我馬子の娘 刀自古郎女が母であり,大兄と呼ばれていたように,明確ではなかったにしても,推古天皇の次期天皇候補の筆頭であったのだろう。ならば,順当にいけば,山背大兄王が,即位するはずだ。

 ここで,蘇我蝦夷は,迷った。こうした点で,父の馬子や息子の入鹿と違った性格だったようだ。田村派,山背派の双方があれこれ画策したようだが,結局,蝦夷は,田村皇子を即位させ,舒明天皇となる。

 ところが,13 年で舒明天皇も亡くなってしまい,再び,継承権争いが起こる。今回は,さらに複雑だ。蘇我氏の血を引く 古人大兄皇子,中大兄皇子とも呼ばれる 葛城皇子,さらには,前回,身を引いた形になっている 山背大兄王。
 古人大兄と山背大兄は,ともに,蘇我の血統であるが,中大兄皇子だけは違う。しかも,中大兄皇子の母,宝皇女は后でもあるから,中大兄皇子が即位することが順当なところではあろう。だが,蘇我の血ではない・・・それなら,古人大兄とすれば,先の山背大兄も黙ってはおるまい。
 そうした中,蝦夷は,なんと宝皇女を即位させてしまう。皇極天皇だ。おそらく,一時しのぎ,時間稼ぎだったのではないか。

 このあたりから蘇我氏の実権は,しだいに,蝦夷から子の入鹿に移っていったようだ。また,蘇我氏の専横ぶりも目立つようになる

 是歳,蘇我大臣蝦夷,己が祖廟を葛城の高宮に立てて,八つらの舞をす。
 (中略)
又尽 (ふつく) に国挙 (くにこぞ) る民,あはせて百八十部曲を発して,預め双墓を今来に造る。一つをば大陵と曰ふ。大臣の墓とす。一つを小陵と曰ふ。入鹿臣の墓とす。

 この墓を造った際に,上宮の民も使われたことが,ことさらのように 『書紀』 にも記されているが,上宮といえば元は,聖徳太子,この時点では,山背大兄の住んでいた土地である。さらに,山背大兄の異母妹であった 上宮大郎姫王 が,そんな蘇我の所業に激怒したと続けて記している。

 翌皇極二年十月,蝦夷は病気をし,その際,紫冠を子の入鹿に与え,「大臣の位に擬ふ」 とある。さらに,入鹿は,独断で,古人大兄皇子を天皇にしようとした。
 そして,十一月,ついに入鹿は,山背大兄王を斑鳩の里に襲う。山背大兄王は,いったん,妃らとともに,生駒山に逃れるが,斑鳩の宮は焼き払われてしまう。
 山背大兄王に付き添った 三輪文屋君 は,深草の屯倉に逃れることを進言するが,山背大兄王は,受け入れない。
 入鹿は,山へも兵を出し,山背大兄王を探すが,山背大兄王は,自ら斑鳩寺に戻り,入鹿に告げる。

「吾,兵を起して入鹿を伐たば,其の勝たむこと定し。然るに一つの身の故に由りて,百姓 (おほみたから) を残 (やぶ) り害 (そこな) はむことを欲りせじ。是を以て,吾一つの身をば,入鹿に賜ふ」とのたまひ,終に子弟・妃妾と一時に自ら経きて倶に死せましぬ。

 こうして,山背大兄王は,自害し,滅びてしまう。そのことを知った蘇我蝦夷は,入鹿の無茶な行いを嘆いたという。そして,この事件は,さらに,大化の改新へとつながっていく。

 山背大兄王が滅んだ,滅ぼされた地に再建された法隆寺。聖徳太子の霊を封じ込めた寺だともいう。むしろ,山背大兄王の霊を封じたのではないか・・・
 煙草の火を消し,夢殿に向かおうと思った。目の前に大きなクスノキがあった。その複雑に絡み合ったような根元が,何かを訴えかけているようにさえ見えた。

 

クスの根元  クスの根元

 

 東大門への道は,夢殿のある東院への道だ。観光シーズンならば,多勢の観光客が往来する。今日はひっそりとし,孫を連れるお爺さんが前をゆっくり歩いていた。

 

東大門  東大門 

 

 東大門を出て100メートルほど歩くと東院に着く。もともとは,聖徳太子が推古 9 (601) 年に建てた 「斑鳩宮」 だったが,入鹿によって焼かれたことは,既に書いた。
 天平 11 (739) 年に僧行信によって,聖徳太子の冥福を祈るために創立したのが,現在の東院,上宮王院である。

 回廊に囲まれた本堂にあたる 「夢殿」 は,八角円堂で,4つの面に扉を持つ。本尊は,救世観音。古くからの秘仏であったが,明治時代に,フェノロサにより,初めてその姿が明らかになった。現在では,春と秋の2回,一般公開される。

 

夢殿  夢殿 

 

 法隆寺・東院のすぐ東に,中宮寺がある。尼寺であり,大和の三門跡寺院の一つ。聖徳太子が母である穴穂部間人皇女のために,その宮があったところに建立したと伝えられる。創建当時は,現在地より 600 メートルほど東にあったという。
 発掘調査によると,金堂・塔なども確認され,四天王寺様式の,つまり,中門,塔,金堂,講堂が南北に一直線に並ぶ寺院だったらしい。

 

中宮寺への道  中宮寺境内の塀

中宮寺への道   境内の塀

 

 現在は,池の上に建つあまり趣のない本堂が目立つくらいで,狭い境内はひっそりとしている。
 この本堂の中に,国宝の 伝如意輪観音像 が安置されている。有名な 半跏思惟像だ。如意輪観音と伝えられているが,実際は,弥勒菩薩だろうといわれる。その美しさは,比類がない。

  深い瞑想の姿である。半眼の眼差は夢見るように前方にむけられていた。稍々うつむき加減に腰かけて右足を左の膝の上にのせ,更にそれをしずかに抑えるごとく左手がその上におかれているが,このきっちりと締まつた安定感が我々の心を一挙に鎮めてくれる。厳しい法則を柔い線で表現した技巧の見事さにも驚いた。右腕の方はゆるやかにまげて,指先は軽く頬にふれている。指の一つ一つが花弁のごとく繊細であるが,手全体はふっくらとして豊かな感じにあふれていた。そして頬に浮ぶ微笑は指先がふれた刹那おのずから湧き出たように自然そのものであった。飛鳥時代の生んだ最も美しい思惟の姿といわれる。五尺二寸の像のすべてが比類なき柔かい線で出来あがっているけれど,弱々しいところは微塵もない。ゆびのそりかえった頑丈な足をみると,生存を歓喜しつつ大地をかけ廻った古代の娘を彷彿せしむる。その瞑想と微笑にはいかなる苦衷の痕跡もなかった。

    亀井勝一郎 『大和古寺風物詩』 (新潮文庫版,1953,1997 改版)

 

中宮寺本堂  中宮寺本堂 

 

 中宮寺を出,再び,法隆寺の参道の方に戻る。すぐに北へ向かう路地があり,そこを北へ,山手の方へ歩いていく。
 斑鳩には,法隆寺の五重塔を含めて,三つの塔がある。残る二つの塔を目指そう。

 きつい登りではないが,だらだらと1キロ近い道,蒸し暑さが増し,汗が流れる。雲間から日がさすと,焼けるように暑い。影も少ない。ちょうど持っていた雨傘を開く。ほとんど歩く人もおらず,通る車もない。
 ゆるやかなカーブを曲がると見えた。法輪寺の三重塔だ。

 

法輪寺遠景  法輪寺遠景

 

 小さな門をくぐると,左手に三重塔,右手に金堂,奥正面に講堂がある。配置としては,法隆寺様式だ。
 創建の経緯は,推古 30 (622) 年に,聖徳太子が山背大兄王に造らせたという説,天智九 (670) 年に斑鳩寺が炎上した後,百済の開法師・円明師・下氷新物ら三人が合力して造立したいう説がある。
 これまでに何度か倒壊し,復興されているが,現在のものは,元文年間 (1736 〜 1741) に建てられたものという。ただし,三重塔は,昭和 19 年に雷火により消失し,昭和 50 年に再建されたものである。

 

三重塔  金堂

法輪寺・三重塔 (左),金堂 (右)   

 

 法輪寺前の道を東に進んで行く。1キロメートル弱で,法起寺に着く。

 法起寺は,聖徳太子が死に臨んで,かって法華経を講説したこともある岡本宮を寺に改めるよう山背大兄王に遺言し,寺となったという。
 現在,金堂は失われているが,もともとは,西に金堂,東に三重塔,北に講堂があったらしい。法隆寺や法輪寺とは,金堂と塔の位置が逆に建てられていた。
 三重塔は,慶雲 3 (706) 年に恵施僧正により建てられたもので,日本最古,また,方 6.42 メートル,高さ 24.5 メートルは,最大の三重塔でもある。

 それにしても,境内は,ひっそりとしている。私以外には誰もいない。閉ざされた南大門の外は,田圃が広がっており,風に青々とした稲がそよいでいるだけだ。
 しばらく,ぼんやりと三重塔を見上げていたが,他にすることもない。そろそろ帰ることにしよう。

 

講堂  三重塔

法起寺・講堂 (左),三重塔 (右)   

 

 門を出て,南に向かう。振り返ると,田圃ごしに,高圧電線の鉄塔と法起寺の塔が見えた。

 

振り返れば  振り返れば

 


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