たまにはお散歩


 

第 10 回 般若寺から浄瑠璃寺・岩船寺へ  (2004. 1.12.)

 

 昨 (2003) 年は,一度しか 「お散歩」 が出来なかった。 「お散歩」 の準備はしていたのだが,出かけることが出来なかった。 年が,2004 年に変わり,1月最初の三連休。 やはり,「お散歩」 に出かけたくなった。
 昨年,準備していたコースが2つほどある。 しかし,今日は,そのどちらにも行く気がしなかった。 どこへ行くとも心が決まらないまま,電車に乗ると,自然に奈良に向かっていた。

 近鉄・奈良駅に着いたのは,もう正午に近かった。 駅前で,昼食を食べながら,どこへ向かうか,ぼんやり考えていた。 外は,冬にしては,比較的暖かく,しかも雲ひとつない快晴。 歩くには,絶好の日和だ。
 奈良坂・・・という言葉が唐突に浮かんだ。 ずいぶん昔,歩いたことがある。 もう一度,そのあたりに出かけてみるか。 (地図参照

 店を出ると,登大路を奈良県庁まで,東に向かう。 東大寺へ行くおなじみの道。 今日は,成人の日だ。 そのせいか,晴れ着姿の女性やスーツ姿の青年が目立つ。

 

登大路の標識  鹿の飛び出し注意の標識

 

 奈良県庁の角を北に折れる。 右手は,東大寺の境内だ。 樹木ごしにも,賑わっているのがわかる。 東大寺を 「お散歩」 したのは,もう2年ほど前のことだ。 そんなことを考えながら進んでいると,大きな注連縄のはられた,立派な門があった。 東大寺の 「転害門 (てがいもん)」 である。
 鎌倉時代に修理されたことはあるらしいが,使われている木材などは,奈良時代に創建された当時のものがそのまま使われているという。 それゆえに,「国宝」 に指定されている。

 転害門という名称がどうしてついたのかには,いくつかの説があるらしい。
 ひとつは,宇佐の八幡大神を東大寺造営の守護神として迎え,この門から入ったときには,殺生を禁じ,「害」 を 「転」 ずということから,「転害門」 と呼ばれるようになったという。
 また,別には,婆羅門僧正がこの門から入る時,行基菩薩が僧正を手で掻くように招いたことから,「手掻門」 と呼ばれ,後に,現在の字になったともいう。

 

東大寺・転害門  転害門

 

 門に近づき,中を覗くと,はるか向こうに大仏殿の屋根の鴟尾が輝いていた。 残念ながら,写真では,わかりにくくなってしまった。

 

手害門から  手害門から

 

 門をあとにして,佐保川の細い流れにかかる橋を渡ると,国道は右 (東) にカーブする。 が,その国道ではなく,真っ直ぐ北に続く旧道に入っていこう。 少し登り坂だ。
 奈良県庁から北にまっすぐ続くこの道は,平城京の東 京極通りの延長線上にあたり,「奈良阪越え」 とも呼ばれる,京都に続く街道である。 「京街道」 とも呼ばれて,古くから,京への道として重要な街道のひとつだ。

 その街道を少し登ると,民家の間に,「北山十八間戸」 がある。 鎌倉時代の真言律宗の僧,忍性 (にんしょう) が,ハンセン氏病患者の救済のために建てたのが始めという。 忍性は,病気のために,物乞いにも行けない患者を背負って,毎日,奈良の市まで出かけたという。 そういう伝説が残されている。
 この建物は,もともとは,これから向かうつもりの 「般若寺」 の北にあったが,1567 (永禄 10) 年,三好・松永の乱で焼失し,江戸時代・寛文年間に現在地に再建されたという。
 また,第2次大戦後には,引揚者の共同住宅として使われたこともあるという。
 写真のように柵に囲まれ,「北山十八間戸」 という石碑と,小さな木の立て札が立っているが,気をつけないと気づかれないかもしれない。 華やかな歴史のエピソードをもつ史跡ではないが,確かに,歴史を刻んだ建物である。

 

北山十八間戸  北山十八間戸

 

 すぐそばに,夕日地蔵がある。 「永正 6 (1509) 年 4 月 興福寺僧浄胤造立」 という銘があるという。 西に向いた,やさしい顔立ちのお地蔵さんだ。
 そばに,会津八一の歌の書かれた木の立て札が立っている。

 ならざかの いしのほとけの おとがひに こさめながるる はるはきにけり
                              秋艸道人 会津八一

 

夕日地蔵  夕日地蔵

 

 京街道をさらに北上する。 坂が続く。 やがて右側に,立派な門に出会う。 般若寺楼門である。 般若寺に入るには,この門ではなく,もう少し北側の路地を入っていくと,拝観入り口がある。

 

般若寺楼門  般若寺楼門

 

 入り口を入ると,目につくのが本堂を取り囲むように並ぶ石仏だ。 花の寺としても有名な寺だが,真冬の今,白い水仙の花が石仏を囲む。

 

石仏   石仏

 

 庭園に入ると,まず目につくのが,十三重石宝塔だ。 聖武天皇の頃に造られたという伝もあるが,現存する目の前の塔は,1253 年頃,東大寺再建のために訪れていた宗の石工・伊行末が造ったものだと言われている。 花崗岩で作られた立派な石塔である。

 

十三重石宝塔  十三重石宝塔

 

 この石塔の北側に本堂がある。 この本堂は,江戸時代に建立されたお堂で,中に,本尊 「文殊菩薩騎獅像」 など,数体の仏像が安置されている。
 本尊の文殊菩薩像は,獅子の上に騎乗しているという,珍しいお姿である。 作は,1324 (元享 4) 年,慶州の仏師,康俊・康成によるという。

 

本堂  本堂

 

 境内には,あと経堂と鐘楼,それに,鎌倉時代のものといわれる石の卒塔婆が2基ある。 目立つものといえば,それくらいだ。 あとは,花の寺とも知られているだけに,季節があえば,花を咲かせるだろう草木が,茂っているだけだ。
 東大寺や興福寺といった,今では,すっかり観光化した有名寺のすぐそばにあり,その喧騒が聞こえそうなほどに近い場所にありながら,ここは,静かだ。
 本堂から,静かな境内に戻り,十三重石塔を見ながら,信仰心からではなく,こうして一観光客として立っている自分を考える。
 観光客の多いお寺にはない,この静けさ。 そうして,逆光の中に黒々とそびえる石塔。
 今,どうして,なぜ,私は,ここに立っているのか? 「お散歩」 なら,別の場所に行くつもりで準備していたのではないのか? なぜ,今,ここにいるのか?
 じっと見ていると,そんな自問が次々にわきあがる。 が,答えは見つからない。

 

逆光の石塔  逆光の石塔

 

 般若寺を出る。 京街道を北に進む。 途中のコンビニでお茶を買う。 ここから,浄瑠璃寺まで歩こう,と決める。 どれほどの距離になるか,ちょっとわからない。 手持ちのガイドブックの地図で見ると,7,8キロメートルだろうか。 1,2時間の距離だ。 無理な距離ではない。

 しばらく京街道を行くと,鳥居とその少し向こうにある道標に気づいた
 まず,古い道標を確かめる。 「左 かすが大ぶつ  右 京 うち」 と読める。 間違いなく,この道が京街道だ。

 

京街道・道標  左 かすが大ぶつ  右 京 うち

 

 少し後戻りして,鳥居をくぐる。 この神社を訪れるのは,初めてだ。 「奈良豆比古神社」 という。 延喜式にも,記載されている神社で,祭神は,施基親王,平城津 (ならつ) 彦神,春日王。 平城津彦神は,産土神だろうが,施基親王,春日王とは,誰だろう。

 

奈良豆比古神社  奈良豆比古神社 

 

 これは,家に戻ってから調べたことだが,施基親王は,天智天皇の第七子で,『万葉集』 や 『続日本紀』 には,「志貴」 という漢字があてられているという。
 『日本書紀』 には,「天智天皇七年二月」 に,

 又越の道の君伊羅都売有り,施基皇子を生めり。

とある。 天智天皇の子どもであるなら,壬申の乱にも関係しているのであろうか?
 手持ちの 『日本書紀』 の注釈には,「著名な万葉歌人」 とある。 また,後の 「光仁天皇」 の父だという。
 ついでに,『日本書紀』 の 「天武天皇」 の条をざっと調べてみると,壬申の乱後の,「天武天皇八年五月」 の条に,面白い記述がある。

 五月の庚辰の朔甲申に,吉野宮に幸 (いでま) す。 乙酉に,天皇,皇后及び草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子に詔して曰はく,「朕,今日,汝等と倶に庭に盟 (ちか) ひて,千歳の後に,事無からしめむと欲す。 奈之何 (いかが)」 とのたまふ。

 今後,親子・兄弟で争うような事が起きないように,お互い誓い合おう,というのだ。 ここに集まった六人の皇子たちのうち,河嶋皇子と芝基皇子の二人が,天智天皇の皇子である。
 そして,天武天皇の言葉に対して,「これからは,お互いに助け合いながら,天皇に従ってきます」 と,一番最初に答えたのが,草壁皇子であり,これは,事実上,草壁皇子が後継者であることを宣言する場になった。 実際のところ,血筋からいっても,この六人の中で,天皇の後継者たりえるのは,草壁皇子と大津皇子しかいないだろう。 皇后の姉の子どもである 大津皇子 ではなく,天皇・皇后の実子である草壁皇子が,後継者であることを示し,他の皇子たちを,証人として立ち会わせたわけだ。 しかも,天智天皇の皇子たちにも,釘を刺す意味もあったろうか。
 しかし,こうした誓いを,なぜ,飛鳥の地ではなく,吉野で行ったのか? あるいは,飛鳥では,大津皇子の人気も高かったためか・・・後の大津皇子の生涯を考えると,意味深いものがある。

 奈良豆比古神社に戻ろう。 京都・宇治に通じる街道にある,この神社に 施基皇子 が祀られているというのも,興味深いものがある。 が,それ以上のことは,わからなかった。
 なお,春日王は,その施基親王の子どもであるという。

 神社の境内に入ると,写真のような 「舞台」 が目につく。 この神社の例祭は,毎年 10 月 9 日に行われ,その宵宮祭に,奈良阪町の翁講により,「翁舞」 が奉納されるという。 その舞の舞台である。
 この舞は,謡曲や狂言の源流でもあるらしい。

 

奈良豆比古神社・翁舞舞台  翁舞舞台 

 この神社の裏に,「天然記念物」 に指定されている,巨大なクスノキがそびえている。 樹齢 1000 年ともいわれているが,確かに,大きなクスノキだ。
 下 左の写真の根元に,赤い服を着た人影が見える。 大きさがわかるだろうか。

 

大クス根元  大クス

天然記念物 大クス

 

 奈良豆比古神社を出ると,自動車の行き交う道路をひたすら歩く。 浄瑠璃寺まで歩いてみようと思ったのだ。 おそらく,約1時間半ほどの道のりの筈。 3時半には着くだろう。
 しかし,こんな馬鹿げたことをする人は,今どき,めったに,いないだろう。 そう思う。 もし,浄瑠璃寺へ行きたいのなら,バスに乗ればいい。 そうするべきだ。 そう思いながらも,雲ひとつない空と久しぶりにお散歩して高揚した気持ちが,歩くことを命じる。
 若い頃などは,もっと無目的に歩いたものだった。 どこへ通じるのかわからない道を,勘と頭の中のかすかな地図の記憶だけを頼りに,どこか,鉄道の駅に着くまで,ひたすら歩いたものだった。 これまでの 「お散歩」 にも,そういう馬鹿げた歩き方に近いものがある。 普通なら,電車やバスを利用する区間を,意味もなく歩いているところがある。 それはそれで,面白いのではあるが・・・
 これが今回の失敗だった。 あとで,ひどい目に合うことになった。

 奈良豆比古神社から,青山という住宅地を右に見ながら,「梅谷口」 の交差点を右に曲がる。 しばらく行くと京都府に入る。 さらに歩くと,木津の学研都市が広がる。 大阪・奈良・京都の境目のあたりから,学研都市の建設が進められている。 その一端がここだ。 しかし,先を急ぐ。 急いだあまり,この 「バベルの塔」 のような,水道関係の建造物の写真は,ぶれてしまった。

 

木津南配水池  木津南配水池 

 

 学研都市の造成地を過ぎると,しだいに,民家が少なくなる。 所々に集落が見える程度で,道路を歩く人など,誰もいない。 私だけだ。 通るのは,車だけだ。
 時々,バスの停留所がある。 時間を確かめるが,バスに乗ろうと思えば,20 分ほど待っていないといけない。 何もない道路脇で,そんなに待つのなら,先を急ごう。 それに,どうやら,このあたりでは,路線バスも手を上げれば,どこからでも乗車ができるらしい。 本当に疲れたら,そうすればいい。 歩いていると汗ばんでくる。 まだ,汗をかいているだけで,疲れたわけじゃない。 が,バスに乗れれば,歩く時間の短縮ができる。 もう3時に近くなってしまったからだ。

 また,バス停が見つかる。 10分ほど待てばバスが来るらしい。 次の停留所はどこだろうと見ると,「つぎは 浄瑠璃寺口」 とある。 それなら,ここまで来たんだ。 歩ききろう。

 「浄瑠璃寺口」 のバス停に到着したのは,午後3時だった。 お寺への道は,矢印が示していた。 その通りに山道に入る。 すると,立て札がまたあった。 「浄瑠璃寺まで,徒歩3キロ」。 まだ,あと3キロもあるのか・・・少し早足で,30分あまりだろうか。 やっぱり,予想通り,3時半だなあ,着くのは・・・そう思った裏に,若干の落胆があった。 それが,最初の 「気配」 だったが,その時は,気づかなかった。

 山道は,やがて,再び,バスの通る車道に合流するのが見えた。 その少し先の道路を,バスが駆け抜けていった。 樹木の間の私など,運転手には見えないだろう。 やっぱり,バス停で待ってるべきだったかなあ・・・それまで,快調に歩いてきたのに,なぜか,通り過ぎて行ったバスを,気持ちが追いかける。

 しばらく,バスの走り去った田畑に囲まれた道を歩くと,再び,古い道筋との分岐があった。 ここは,迷わず旧道に入る。
 旧道の登坂を上がってすぐに,「やけ仏」 があった。 そばの立て札には,「元亨三 (1322) 年に造立」 とある。もともとは,「辻堂」 と呼ばれた屋形があったが,たびたびの火災にあって焼失したという。 阿弥陀三尊らしいが,写真のように,その姿は,かろうじて輪郭がわかるだけだ。

 

やけ仏  やけ仏

 

 やけ仏を過ぎ,下り坂を行くと,また,舗装された新道に合流する。
 しばらく歩く。 なにかがおかしい・・・歩くと股関節のあたりが,少し痛んだ。 ちょっと,疲れたのかな。
 右手に,お地蔵さんが並んでいた。

 

たかの坊地蔵  たかの坊地蔵

 

 お地蔵さんのところで,道脇の石に腰掛けて,休憩した。
 あと,15 分ほどだろうか。もう少し,がんばろう。ここまで来たんだから,浄瑠璃寺までは行かなくては・・・

 僅かなアップダウンの道が続く。歩くほどに,足の痛みが増してきた。 右足は,なんともないが,左足の股関節が痛む。 ペースダウン。 右足は,普通に前に振り出せるが,左足がついていけない。無理をすると痛む。 歩幅がどんどん狭くなっていく。
 特に,登り坂では,ほとんど,ふだんの半歩にも満たない歩幅でないと,痛くて歩けなくなる。 少し歩いては,膝に手をついて休む。もう少しだ。
 そうして休んでいると,バスが追い越して行った。 さっき,通り過ぎたバスとは,違う系統のバスらしい。 手を上げる間もなかった。 思わず舌打ちする。

 下り道は,まだ,比較的 楽に歩けた。 それでも,歩幅は狭くなっているが,登りに比べれば,まだ,まし というものだ。 そうして,とにもかくにも,歩き続けた。 歩き続けなければ,どうしようもない。

 「浄瑠璃寺」 に着いたのは,思っていた時間より,10 分ほど遅れていた。

 真言律宗 小田原山 浄瑠璃寺。 創建時の本尊は,薬師如来。 その薬師如来の浄土である 「浄瑠璃世界」 から,寺名がつけられたという。
 山門をくぐる。

 

浄瑠璃寺・山門  浄瑠璃寺・山門

 

 山門をくぐると,中央に池があり,その東側,少し高い位置に 「三重塔」 があり,池をはさんだ西側に,「九体阿弥陀堂 (本堂)」 が建てられている。

 先に,国宝に指定されている 三重塔 に向かう。 木立の中に,ひっそりと立っている。 しかし,重厚な塔だ。
 この塔は,1178 (治承 2 ) 年,京都一条大宮から移されたものだという。 塔内には,秘仏とされている,薬師如来像が安置されており,創建当時のご本尊であったという。
 太陽の昇る東方にある浄土を,「浄瑠璃浄土」 という。 薬師如来が教主だ。 太陽の沈む西方の浄土が 「西方浄土」,いわゆる,「極楽浄土」 で,その教主が,阿弥陀如来である。

 

三重塔  三重塔

 

 塔の前,中央の池ごしに,西側の本堂 「九体阿弥陀堂」 を見る。
 1107 (嘉承 2 ) 年に建立されたお堂。「九体阿弥陀堂」 というのは,京都を中心に,九体の阿弥陀仏を安置することが流行した時期があり,当時は,競ってあちこちに建立されたらしいが,現在も残っているのは,この浄瑠璃寺だけである。 別名 「九体寺」 とも呼ばれているのは,このためだ。
 本堂に入ると,薄暗い堂内に,九体の阿弥陀仏が並ばれている。 中央の阿弥陀仏は,丈六の坐像で,「来迎印 (下生印)」 を結ぶ。 「来迎印」 というのは,右手は,胸の前に上げ,親指と人差し指をまるくする。 左手は,座禅を組む左膝に,指を下向きにして,同様に,親指と人差し指をまるく結ぶ。 遅れたもの,あとから来るもの,弱いものをひきあげ,たすける意思を表わすものだという。
 この中尊の左右に,4体ずつ,半丈六の阿弥陀如来坐像が安置されている。 その一回り小さい8体の阿弥陀仏は,「上生印」 を結ぶが,こちらは,組んだ足の中央で,両手指を組み (やはり左右の手の,親指と人差し指はまるくする),理想を目指し,自ら向上すること,高い次元に昇ることを表しているという。

 

本堂  本堂・阿弥陀堂

 

 目が暗さになれると,中尊の前に腰をおろして,見上げた。 静かな気分になれるのが不思議だ。 闇雲に歩き,それこそ,アクセク,ジタバタしている自分を思う。 そんな私も,救って下さるのだろうか。 極楽浄土に導いてくださるのだろうか。

 中尊の左側の厨子の中に,「木造 吉祥天立像」 が立っている。 ふだんは,厨子の扉は閉じられているが,正月元旦からの 15 日間と,3 月 21 日から 5 月 20 日まで,また,10 月 1 日から 11 月 30 日までの間だけ,開扉されるという。 ちょうど,その期間内だった。 ありがたい。
 気がつくと,それまで立っていた,数人の拝観者たちが,私の横で座り始めていた。 中尊の正面に座っていた私は,その位置を,他の方に譲ることにした。

 本堂を出て,本堂前から,三重塔を見る。
 池のこちら側が彼岸,向こうが,此岸ということになろうか。

 

彼岸より三重塔を見る  三重塔

 

 その昔,堀 辰雄 夫妻が,浄瑠璃寺を訪れたことがある。 『浄瑠璃寺の春』 というエッセイに書かれている。彼らが訪れたのは,タンポポや馬酔木の花の咲く春のことだった。

 その小さな門の中へ,石段を二つ三つ上がって,はいりかけながら,「ああ,こんなところに馬酔木が咲いている。」 と僕はその門のかたわらに,丁度その門と殆ど同じくらいの高さに伸びた一本の潅木がいちめんに細かな白い花をふさふさと垂らしているのを認めると,自分のあとからくる妻のほうを向いて,得意そうにそれを指さして見せた
「まあ,これがあなたの大好きな馬酔木の花?」 妻もその潅木のそばに寄ってきながら,その細かな白い花を仔細に見ていたが,しまいには,なんということもなしに,そのふっさりと垂れた一と塊りを掌のうえに載せたりしてみていた。

    堀 辰雄 『大和路 浄瑠璃寺の春』より

 彼らがくぐった門を出ながら,そんな話を思い出していたが,今は,まだ,1月。花などには疎い私には,どれが,その木なのか,今でもその木があるのか,皆目,見当もつかなかった。
 ただ,見上げると,すっかり葉の落ちた柿の木に,まだ,落ちずに残っている実がたくさんついてのだけはわかった。

 

柿の実  柿の実

 

 不思議なことに,足の痛みは,やわらいでいた。
 これなら,もう少し,歩いてみようか。 ほど近い岩船寺まで,当尾の道を,石仏を訪ねてみよう,と思った。

 岩船寺へのバス道路を少し行くと,右に入っていく道がある。 その少し手前のやぶの中に,石仏が残されている。「やぶの中三尊」 だ。 右に 「十一面観音菩薩立像」,中央に 「地蔵菩薩立像」,左に 「阿弥陀如来坐像」 が彫られている。 1262 年の銘があるという。

 

やぶの中三尊  やぶの中三尊

 

 いよいよ,右の道を入って行く。 竹やぶ,雑木林の間の細道が続く。 浄瑠璃寺から岩船寺に続く道には,「当尾 (とうのお) の石仏」 と呼ばれる石仏の多い所だ。 今の 「やぶの中三尊」 もそうであるが,大半は,鎌倉時代に作られたもの。
 ただ,すでに4時を回ってしまった。 しかも,上り下りの道を歩いているうちに,またもや,左足股関節の痛みが増してきた。
 久しぶりに,訪れたというのに,これでは,もう無理だ。 しかし,この道に入ってしまった以上,なんとか岩船寺まで行こう。 そこからバスに乗って帰ろう・・・そう,決めた。

 最後に,この石仏にだけは会いたかった。 「わらい仏」 と呼ばれる石仏。 中央に 「阿弥陀如来坐像」,右に 「観世音菩薩坐像」,左に 「勢至菩薩坐像」。
 お顔を見ると,通称のように,微笑をたたえているように見える。 「銘文」 には,「永仁七年二月十五日 願主 岩船寺住僧 大工 末行」 とあるという。 1299 年のものだ。

 

わらい仏  わらい仏

 

 わらい仏のすぐ左脇に,土の中から,ほとんど,お顔だけを出した 「眠り仏」 があった。 なんとか,岩船寺まで,歩きつづけられるように,お祈りした。

 

眠り仏  眠り仏

 

 茶店の横を通り,最後の登りを,なんとか登る。 右足を少し出しては,そこまで左足を引き上げる。もうそうしなければ,歩けない。 左足を踏み出せなくなっていた。 とにもかくにも,坂を登りきると,岩船寺門前に出る。

 門の石段の手前に,僧侶が冷水浴に使ったと伝えられている 「石舟」 があった。 石棺のようにも見えるが,本当は,どうなんだろう。

 

石船  石船

 

 すでに,拝観時間は,過ぎている。 人の姿もまばらだ。 もうこの石段を上がる気力もない。 じっとしているだけなら,痛みもないので,気持ちは,せめて門のところまで上がり,中を覗くだけでもしたい。 だが,この石段は,登れないだろう。

 また,別の機会に,訪れることにしよう。 その時には,もっとゆっくりと,今日,会えなかった石仏たちにも再会したい。 午後 5 時が近くなり,あたりは,急に暗くなってきた。 浄瑠璃寺まで戻れば,奈良へ戻るバスもある筈だが,もういい。 ここ岩船寺で,関西本線・加茂駅までの最終バスが来るまで,待つとしよう。

 

岩船寺  岩船寺

 


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