たまにはお散歩


 

第8回 白毫寺・新薬師寺 (2002. 9.20.)

 

 この数ヶ月,「お散歩」 できなかった。休みの日になると,なにやら疲れが出て,外出するのが鬱陶しく,家の中でごろごろしてばかりいた。
 今日,急に,「お散歩」 しようと思った。理由はない。強いて言えば,久しぶりに 「休暇」 を取ったこと,そのあとに待っている 「三連休」 ・・・もっとも,それはカレンダーの上での話で,私自身は,仕事の関係で 「三連休」 にはならない。ならないのだが,そういう,休みが続くんだ,という気持ちの余裕が,「お散歩」 する気持ちを引き出したのだろう。

 「どこへ?」
 あまりに急に思い立ったものだから,なんの計画もない。考える間にも,身体の方は,すっかり身支度を終えていた。ともかく,出かけよう。

 南海電車に飛び乗った時にも,まだ行き先は決まってはいなかった。通勤定期の有難さだ。ともかくも電車に乗ってしまえる。
 しかし,ぼんやりと電車に揺られていると身体が自然に反応してしまう。気がつくと,職場への乗換駅・三国が丘駅で降りてしまっていた。こりゃあかん。このままだと職場に向かってしまう。情けない。これでは,パブロフの犬ではないか。やはり,たまにはお散歩しなくては・・・

 降りたものは仕方がない。JRに乗り換え,職場へとは逆向きの,天王寺方面行きの電車に乗る。やはり,奈良か・・・奈良方面であれば,まったく知らないわけではない。ガイドブックがなくても,ある程度は,歩ける。
 天王寺駅で関西線 (大和路線) に乗り換える。途中の 「法隆寺」 駅で,ちょっと心が動いたが,身体は動かない。法隆寺,斑鳩の里は,またの機会にしよう。
 結局,降りたのは,「奈良駅」。まだ,はっきり行き先が決まったわけではないが,ただ,「あそこ」 にだけは行ってみようと思うところがあった・・・

 駅を出て,賑やかな三条通りを奈良公園の方に向かうと,道には,「9月21日(土)釆女まつり」 と書かれた横断幕が,張られていた。毎年,中秋の名月の日に行われる 「釆女神社」 のお祭りだ。何も考えずに飛び出して来たものだから,予想もしていなかった。そうか,一日早く来てしまったのか。もっとも,そうと知っていたら,人手の多い 「その日」 を避けていたかもしれない。

 話は前後するが,今日の 「お散歩」 の最後に,「釆女神社」 のある 「猿沢池」 に立ち寄った。日の暮れに近い時間,釆女神社では,関係者が集い,神主による祭儀が行われていた。
 そして,猿沢の池には,明日には,雅楽奏者を乗せて池を巡る 「船」 が準備されていた。

 

竜頭船  竜頭船

 

 話を戻そう。
 賑やかな三条通りが,東向通りと出会うあたりにある 「うどん屋」 で,久しぶりに昼食を摂る。昔は,よくこの店に入ったものだ・・・。

 

昼食  うどん屋

 

 食べ終えると,「白毫寺・新薬師寺・・・」 と,ふいに 「行き先」 が決まった。「行き先」 が決まると 「道順」 も思い浮かぶ。その 「道順」 は,これまで歩いたことのある 「道順」 ではない。かって,「白毫寺・新薬師寺」 に出かけたのとは違う道を行こうと思った。 (地図参照

 「餅飯殿通り」 を南に入る。「東向通り」 よりひっそりした 「商店街」 で,観光客の足が入ることは少ないだろう。この少し南の町にも,名所・旧跡が点在するが,そこは,奈良の地元の 「町」 だといえる。
 地図には,ほぼ直線で描いておいたが,実際には,もっと複雑に歩いた。町の雰囲気に惹かれて,狭い路地を入り,角を曲がった。そこは,「観光地」 ではない 「奈良」 の町であった。それだけに,古い町並みが残ってもい,ついついなにげもなくカメラを向けたくなるのだが,カメラを向けファインダーを覗いていると,そこに住んでおられる方々に失礼になるのではないか・・・そんな気持ちになった。

 東の山に向かうと 「奈良教育大学」 に出る。大学を迂回するように南に下がり,大学の尽きたところで,また東に入る。ずいぶん涼しくなったとはいえ,やはりまだ,日向を歩くと汗ばむ。汗を拭いながら,さらに歩いていくと,所々に,「白毫寺」,「新薬師寺」 への 「道標」 が目に付くようになる。
 先に,「白毫寺」 に参詣しよう。

 高円山 (たかまどやま) の麓に建つ 「白毫寺」 への道は,緩やかな登り坂となる。その道すがら,初雪草の白い花などに埋もれたお地蔵さんがあった。足を止めて一息つく。

 

白毫寺   お地蔵さん

(左)白毫寺への道  (右)花に囲まれたお地蔵さん

 

 白毫寺の山門へは,石段を登らなくてはならない。山門をくぐっても,さらに石段が続く。石段の左右には,萩が植えられており,少し早いが,白い花,桃色の花がついている。
 石段を登りきると境内に入る。それほど大きくない本堂が,木々の向こうに見える。私より先に石段を登っていた,お年寄りの一団が,本堂に入るところであった。

 

山門   本堂

(左)白毫寺・山門  (右)本堂

 

 この寺は,天智天皇の皇子のひとり,志貴親王の山荘跡を寺にしたものとも,聖武天皇の高円離宮の跡とも言われている。いずれにせよ,都が平安京に遷った後,寺は荒廃し,鎌倉時代に再興されたという。
 「白毫」 とは,仏の眉間にあり,常に光明を放っていたという 「白い毛」 のことで,仏像などでは,丸い珠のように表されている。

 本堂の右手,山側の斜面にそって,石仏が何体もあり,「石仏の道」 となっている。本尊の阿弥陀如来坐像も気品のあるお姿であるが,風雨にさらされ,丸味を帯びた 「石仏」 たちの姿も美しい。

 

石の仏  石の仏

 

 「石仏の道」 をめぐり,本堂の裏に出るとそこに 「宝蔵」 がある。
 阿弥陀如来坐像,文殊菩薩坐像などとともに,鎌倉時代の作とされる,「閻魔王坐像」 が安置されている。もともとあった 「閻魔堂」 の本尊だというが,その迫力には,圧倒されるものがある。

 宝蔵を出て,西を見ると,木立の間に,奈良盆地が広がっていた。右手 (北) の方には,興福寺の塔も見え,正面彼方には,生駒山。そして,奈良の町並みが望める。

 

眺望

境内からの眺望  上の写真をクリックすると大きな写真が開きます(125 KB)。

 

 白毫寺を出て,新薬師寺に向かう。その途中に,細い流れがある。

能登川の水底さへに照るまでも三笠の山は咲きにけるかも

 そう 『万葉集』 に歌われた,高円山から流れる 「能登川」 だ。あるかなしかのささやかな水の流れに,万葉の人々は,なにを感じたのだろう。

 

能登川  能登川

 

 新薬師寺までの道は,静かな民家の間を抜けていく。所々に,田畑が続く。稲穂は,そろそろ色づき頭を垂れている。
 鏡神社の東側の道に入ると目の前に,新薬師寺・南門が見える。

 

新薬師寺・南門  南門

 

 新薬師寺は,聖武天皇の眼病平癒祈願のために,天平19 ( 747 ) 年,光明皇后によって建立されたという。飛鳥にあった 「薬師寺」 を移したものではない。
 創建当時は,七堂伽藍を備えた壮大な寺で,南都十大寺のひとつに数えられていたという。が,33年後の宝亀11年,落雷によって,現在,「本堂」 として残るお堂のみを残して,他の堂塔はすべて焼け落ちてしまったという。
 国宝に指定されているその 「本堂」 は,創建当時には 「食堂」 であったと推定されている。

 

本堂  本堂

 

 本堂内部には,本尊の薬師如来坐像 (国宝) とその左右から背後にかけて,円形に配置された 「十二神将」 (うち11体が 「国宝」 )が安置されている。
 とりわけ,「十二神将像」 は有名だ。

 「十二神将」 とは,薬師如来を信仰する者を守る武神で,それぞれ,7千の夜叉を率いるという。
 「伐折羅(バザラ)大将」,「額弥羅(アニラ)大将」,「波夷羅(ハイラ)大将」,「毘羯羅(ビギャラ)大将」,「摩虎羅(マコラ)大将」,「宮毘羅(クビラ)大将」,「招杜羅(ショウトラ)大将」,「真達羅(シンタラ)大将」,「安底羅(アンテラ)大将」,「迷企羅(メイキラ)大将」,「珊底羅(サンテラ)大将」,「因達羅(インタラ)大将」 の12体。
 このうちの「宮毘羅(クビラ)大将」 は,「金毘羅」として親しまれている。
 また,十二支とも結びつき,以下の通りという。

「伐折羅(バザラ)大将」−「戌」    「額弥羅(アニラ)大将」−「未」    「波夷羅(ハイラ)大将」−「辰」
「毘羯羅(ビギャラ)大将」−「子」   「摩虎羅(マコラ)大将」−「卯」    「宮毘羅(クビラ)大将」−「亥」
「招杜羅(ショウトラ)大将」−「丑」  「真達羅(シンタラ)大将」−「寅」   「安底羅(アンテラ)大将」−「申」
「迷企羅(メイキラ)大将」−「酉」   「珊底羅(サンテラ)大将」−「午」   「因達羅(インタラ)大将」−「巳」

 

萩  萩

 

 境内には,萩の花が咲いている。もう少し,秋が深まれば,なおいっそう咲き乱れることだろう。

 新薬師寺を出てすぐに,近代的な建物があった。昔,この界隈を歩いた頃にはなかった 「奈良市写真美術館」 である。

 

奈良市写真美術館  奈良市写真美術館

 

 奈良で写真・・・といえば,思い出すのは,入江泰吉だろう。奈良市に生まれ,戦後,大和の仏像,風景を撮り続けた名カメラマン。
 その彼が,全作品を奈良市に寄贈したことから,平成4年に建てられたのがこの 「奈良市写真美術館」 である。

 入ってみると,『東 (ひむかし) の大寺展 〜 写真家の眼−近景,遠景の美−小川晴暘,入江泰吉,小川光三,井上博道−』 というのをやっていた。
 いずれも素晴らしい写真家で,彼らの美しくもあり,また,底知れぬ迫力のある写真を見ていると,これまで自分が撮ってきたものなどとても 「写真」 などとは言えないと思い知る。

 お散歩を続けよう。
 新薬師寺の少し北側に,「志賀直哉の旧居」 が残されている。
 この前の道を東に向かうと 「柳生」 に続く。「柳生街道」 である。「白毫寺」 のあたりから東に続く 「滝坂の道」 とともに,いずれ 「お散歩」 したいと思う。

 

志賀直哉・旧居  志賀直哉・旧居

 

 志賀直哉旧居には入らず,すぐ前の北に続く小道に入って行く。
 そこは,もう 「春日大社」 の内である。木々の間の小道をたどると,やがて,「二の鳥居」 に出る。その鳥居をくぐれば 「春日大社」 だが,今日は,ここから 「興福寺」 の方へ戻ることにする。

 

小道  二の鳥居

 

 たくさんの石灯篭の並ぶ参道を 「一の鳥居」 を目指して歩く。が,その途中で,参道を左に逸れ,広い草原に出る。「飛火野」 と呼ばれるところだ。そこには,夕暮れの近づく中,無心に草を食べる鹿の群れがいた。

 

鹿

 

 鹿の群れの間をすり抜け,道路を一本横切る。
 まもなく,池がある。「浮き御堂」 のある 「鷺池」 だ。
 「鷺池」 の北側の丘のあたりは,「丸窓梅林」 と呼ばれ,梅の樹が多い。その中に,ひっそりと建っているのが,風雅な 「丸窓亭」 だ。
 そのあたりのベンチに腰掛けて,一休みするのもいいが,私は,さらに下へ,鷺池のほとりに下りた。

 

丸窓亭  鷺池

(左)丸窓梅林にある「丸窓亭」  (右)鷺池と浮き御堂。背後の山が 高円山

 

 この鷺池のほとりは,驚くほどに変わっている。今,訪れると岸辺まで,コンクリートで,「整備」 されてしまっている。
 かれこれ 30 年になるが,高校生から大学に入る頃には,月に1度,いや,週に1度は来たのではないかと思うくらい,足を運んだ場所だ。その頃には,古ぼけたベンチと鹿の糞の転がる土の岸辺だった。こんな石畳ではなかった。

 

鷺池のほとり

 

 今日,急に思いついて 「お散歩」 したわけだが,行き先の決まらない中で,最初に脳裏に浮かんだのが 「ここ」 だった。
 ここは,今の私にとって 「今の私」 をつくったともいえる 「思春期」,「十代 (ティーンエイジ)」 を見守ってくれた場所の,ひとつである。あの頃,よく座ったベンチはなくなってしまっているが,この 「池」 の底には,その象徴の小さなひとつが,今も泥の中に沈んでいるだろう。

 

崩れ塀  

 


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