たまにはお散歩


 

第1回 奈良・西の京 (2001. 1.12.)

 

 突然,思いついて出かけた。 奈良は,西の京。 この辺りは,私がまだ中学生だった頃,初めてひとりで訪れた場所。 (参考地図
 ふつうは,近鉄奈良線・西大寺駅で,橿原線に乗り換えて, 「尼ヶ辻」 か 「西の京」 で降りる。 「尼ヶ辻」 なら 「唐招提寺」,「西の京」 なら 「薬師寺」 が近い。

 だが,今日は,JR 奈良駅からゆっくりと歩き始めた。 晴れてはいるが,風が冷たい。
 奈良駅のすぐ北側の道を西に向かう。 逆に東に向かうと 「猿沢の池」 や 「興福寺」 へと向かい,道の両側にはみやげ物屋も多い賑やかな通りになる。

 今日は,西に向かう。 目の先には,大阪との県境の 「生駒山」。 そう,この道は, 「奈良街道」。 奈良から 「暗 ( くらがり ) 峠」 を経て大阪へ続く道だ。 近世, 「お伊勢参り」 が流行した頃には,大阪からお伊勢さん(伊勢神宮)に向かうのにも使われたという。 今は,往時の面影はなく,自動車の往来も激しい。 路線バスも走っている。

 まっすぐ西に向かって 2 km ほど歩くと,近鉄・橿原線に出会う。 すぐ南に 「尼ヶ辻」 の駅。
 この 「尼ヶ辻」 という地名は,唐招提寺の開祖・鑑真和上が,「甘味のある土地が聖地だ」 という中国の故事にならって命名したという。
 ここまで来れば,唐招提寺へ行くのが本来のルートだろうか。 私は,先に訪れたい場所があるので,線路を越え,細道を南へ向かう。

 垂仁天皇陵と呼ばれている 「宝来山古墳」 が見えてくる。 周濠を持つ,この辺りでは最も大きな前方後円墳で,全長 227 m ,後円部の直径 123 m,高さ 17.3 m,前方部は幅 118 m,高さ 15.6 m という大きさを誇る。 古墳時代前期から中期にかけての古墳と言われている。
 垂仁天皇は,殉死を禁じ,その代わりに埴輪を作らせたという。 この古墳に埴輪があるのかどうか。 実際のところ,被葬者はわからない。 いったい誰の墓なのだろう。

 下の写真ではわかりにくいが,周濠の中に小さな丸い小島がある。 この小島の木々は,なぜか剪定されている。 これまた伝説であるが,天皇のために不老不死の果物 ( 非時香果−ときじくのかぐのこのみ )を探し,無事持ち帰ったにもかかわらず,時すでに遅く天皇が亡くなっていたことを嘆いて死んだ田道間守 ( たじまもり ) の墓だという。
 今手元には, 『古事記』 しかないが,垂仁天皇の条にこの伝説が書かれている。 それによると, 「その非時の木實は,これ今の橘なり」 とある。

垂仁天皇陵  垂仁天皇陵

 誰もいない古墳を後にして,南に向かう。 途中,遠くを見れば民家の屋根ごしに薬師寺の塔が見える。
 町の中の小道を左に折れ,踏切を渡る。 さらにしばらく民家の間の道を歩くと,そこが唐招提寺だ。

 唐の僧・鑑真は,754 年(天平勝宝6年) に東大寺に到着するまでに12年間を費やした。 その間の幾度かの難航海などでついに失明しながらも,初志を貫いたという話は有名なところだ。
 その鑑真和上が東大寺・戒壇院を出て,759 年(天平宝字3年) に創建した律宗総本山・唐招提寺の,間口 7 間,奥行 4 間の優美な天平様式の金堂 (国宝) は,今,訪れると,大修復工事のため見ることができない。
 その背後に,講堂 (国宝) がある。 この建物は,平城京の東朝集殿という儀式の際に高級官吏が待機していた建物を移築したものという。 平城京には,昔の建物は一切残ってはいない。 しかし,この建物こそ,移築の際や鎌倉時代に改造されてはいるらしいが,平城京の宮殿の唯一の遺構であるという。

唐招提寺南大門  唐招提寺南大門

 境内は静かだった。 訪れている人も少なくひっそりとしている。 境内の奥まった一角に,鑑真和上の御廟がある。 天平宝字 7 年,和上は金堂の完成を見ることなく入寂したという。

 そうだ,昔,堀辰雄という作家もこの寺の松林の中に立っていたことがある。

 いま,唐招提寺の松林のなかで,これを書いている。 けさ新薬師寺のあたりを歩きながら, 「或門のくづれてゐるに馬酔木かな」 という秋桜子の句などを口ずさんでいるうちに,急に矢も盾もたまらなくなって,此処に来てしまった。 いま,秋の日が一ぱい金堂や講堂にあたって,屋根瓦の上にも,丹の褪めかかった古い円柱にも,松の木の影が鮮やかに映っていた。 それがたえず風にそよいでいる工合は,いうにいわれない爽やかさだ。 此処こそは私達のギリシアだ ―― そう,何か現世にこせこせしながら生きているのが厭になったら,いつでもいい,ここに来て,半日なりと過ごしていること。

堀 辰雄 『大和路・十月』より

鑑真和上御廟前の塀  鑑真和上御廟前の塀

 唐招提寺を後にして,南へ。 向かうは,法相宗大本山・薬師寺。
 こちらは,観光客も多い。 1970 年代にはじまった大復興計画のため,寺内はあちこちで工事が進められており,今は,大講堂の工事が目に付く。
 唐招提寺から歩いてくると北側から入ることができるが,私は,それを横目にぐるりと回り,南門から入る。 南門の前には,六条川という細い川が流れている。 そうか,この辺りが平城京の六条にあたるわけだ。 そういえば,今日奈良駅から歩いてきた奈良街道沿いでは,三条という地名を目にした。 あの辺りが三条になる。

 南門を入ると,正面に 1976 年に復興された 「金堂」,左には 1981 年に復興された 「西塔」 が,まだまだ鮮やかな朱と緑の彩色が目立つ。 このきらびやかさは,どう考えればいいんだろう。 昔,訪れた時には,古びた建物だった。 その後,薬師寺は,大伽藍の復興計画をはじめた。 静かな佇まいだった頃が懐かしくもあるのは,私だけだろうか。
 あの頃,西塔は,基段部分だけが残っていた。 そう,その礎石の窪みに溜まった雨水に,昔のままの東塔の姿が映っていた。

薬師寺金堂  薬師寺金堂

 さあ,いよいよ目を右に向けよう。 形は,真新しい西塔と同じ。 あたりまえだ。 西塔は,この東塔をもとに建てられたのだから。
 フェノロサが 「凍れる音楽」 と称した東塔は,各層に裳階のついた独特の三重塔で,その姿は実に美しい。 創建は,730 年 (天平2年) と伝えられており,白鳳文化を今に伝える。
 よく見ると,所々に昔の丹のあとがわずかに赤みを残しているが,西塔の真新しさに比べると,いかにも歴史を感じさせる。
 塔の上,相輪につけられた4枚の水煙には,シルクロードをこえて伝わったと言われる笛を吹く 24 人の 「飛天」 の姿が透かし彫りにされ,大空に舞っている。

 この静かな 「凍れる音楽」 の下で,昭和初期の詩人・立原道造は,己の病をおして南へ向かう旅の途中,1冊のノートを書き始める。

 十一月二十五日正午
 今僕は最初の一頁を薬師寺の境内で書く。 僕は好きな唐招提寺の金堂を見て来たところだ。 ここには三重塔がある。 その下でこの頁を書きはじめる。 鳩が鳴いてゐる。 空は晴れたり,急に時雨がすぎて行つたり,定まりない。 カツと明るくなると,ここの白く明るい土はまぶしいくらゐ,美しい。 僕はその白い土の色を見入りながら,とほくへ行つてしまつた昨日,一昨日……近い過ぎた日の僕の東京での日々をおもひ出してゐた。

    立原道造 『ノオト 昭13・11・25』(小川和佑 『立原道造 忘れがたみ』より引用)

薬師寺東塔  薬師寺東塔

 そんな若い頃に読んだ本の一節を想いながら,金堂に入る。 黒光りした 3 体の仏たち。 中央には,薬師如来。 その右には,日光菩薩,左に,月光菩薩。 いずれも 「国宝」 に指定されている。
 度重なる戦火に焼け,このような真っ黒く光る姿になったという。 それにしても・・・堂々とした如来とその左右の優雅な,少し艶かしくもある菩薩との対比は,まったく美しいとしか言いようがない。

 薬師寺の歴史を振り返ると,680 年(天武9年)に天武天皇が皇后の病気平癒を発願したのが始まりで,その遺志を継いだ皇后,持統天皇が697年(持統11年)本尊の開眼をみたという。 当初は,ここ西の京より南の,当時の都,藤原京に建立された。 今は,本薬師寺跡として,堂塔の礎石が残っている。 「薬師寺縁起」 によれば,718 年(養老2年)に移建されたといわれる。 本薬師寺跡もいつか再び訪れよう。

 さて,そろそろ今回の散歩もおしまいにしよう。 薬師寺を出て,西に向かうとすぐに 「西の京駅」 がある。 しかし,もう少し南へ歩いてみようと,私は,次の 「九条駅」 を目指した。
 九条駅のすぐ手前で,線路を再び東へ渡り,駅前近くのビルを過ぎると,田畑が広がっていた。 北の方を見やると,薬師寺の東西両塔の上部が,そろそろ西に傾いた夕日に輝いていた。


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